・紀元前1295年頃 RamessesがAigyptosの君主として即位した。
・紀元前1281年頃 Kadashman-TurguがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。
・紀元前1279年 Ramesses ⅡがAigyptosの君主として即位した。
・紀元前1274年 AigyptosとHattiはQadeshにて交戦した。
※AigyptosとHattiはどちらも自国の勝利を記録として残しているが、Hattiの有利がその後も覆されていないことから、Hattiが勝利したと考えられる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1273年頃 Shalmaneser IがAššurの君主として即位した。
※Shalmaneser Ⅰの時代、Mitaanniの全域がAššurの支配下に置かれた。Hattiの君主,Hattušili ⅢはKadashman-Turguと条約を結んでおり、勢力を拡大するAššurを恐れていたものと考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1270年頃 Ammittamru IIがUgarituの君主として即位した。
・紀元前1269年頃 Aigyptosの君主,Ramesses ⅡとHattiの君主,Hattušili Ⅲは和平を結んだ。
※和平が結ばれたのは、東方のAššurが脅威となり、対処の必要性に迫られたからだと考えられる。条約文書の交換にはHattušili Ⅲの妻,Pudu hepaも参加しており、政治に関与していたことが窺える。和平に際しては、領土不可侵・相互軍事援助・政治的亡命者の引渡しおよび免責なとが定められた(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※Akkad語で条約の内容が記された粘土板がBoğazköy遺跡から出土したため、そこがHatti国の首都,Hattuşaであることが判明した。Hattuşaの文書にはNeša語を楔形文字で記したものがある。それがIndo-Europa語を記した最古の文字である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1257年頃 Hattiの君主,Hattušili Ⅲは、娘のMaʿat-ḥōr-nefrurēʿをAigyptosの君主,Ramesses Ⅱに嫁がせた。
※和平を結んで以降、AigyptosとHattiの関係は良好であった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1250年頃 Tudhaliya IVがHattiの君主として即位した。
※Tudhaliya IVは、Ugarituの君主,Ammittamruに対してAmurrūの君主,Benteshinaの娘との離婚と、間に産まれた子息が母に着いていくなら別の子息を即位させることを要求している。Ugaritu内でのAmurrūの影響力を弱めたかったものと思われる。要求内容を書き記した文書にはTudhaliya IVと神の姿を刻んだ印章が押されており、君主の継承に介入するに際しては神の権威を用いる必要があったことを窺わせる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1250年頃? 商王として武丁が即位した。(『史記』殷本紀,夏商周断代工程)
※甲骨文から、商王の后は「帚(婦)」と称されていたと考えられる。また、甲骨文に見える「亜」「尹」「史」などの家臣が、職能集団を従えて政権に仕えていたようである(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。
・?年 商王,武丁は殷に遷都した。
※『尚書』には盤庚が王の時代に遷都を行い王朝の中興を成し遂げたとあり、『史記』には商の混乱は盤庚の先代,陽甲まで続いたとある。しかし、遷都後の商の都であった殷墟遺跡から出土した甲骨文字は、武丁の時代が最古であった。そのため、混乱が終息して殷墟へと遷都を行ったのは、実際は武丁の時代であったと考えられる(落合淳思『殷』)。
・?年 丙寅 商王,武丁は、11月に帝は雨を降らせるか否かを占った。(『甲骨文合集』5658)
※武丁の時代には「帝」が主神として信仰されていた。甲骨文字には、戦争を助け都市の存亡を左右する力を持つ神として、自然神と祖先神の上位に位置する神として扱われており、武丁は帝の信仰を司る者として、主神を自身の支配に利用したと考えられる(落合淳思『殷』)。
※商王の行う甲骨を用いた卜占では、「卜」字形のひび割れができることが吉兆とされ、縦長のひび割れが長いほど大吉とされた。祭祀用の甲骨には、予め背面に窪みが彫られていた。甲骨を割れやすい厚みにする「鑽」と、ひび割れの形を思い通りにするための「鑿」である(落合淳思『漢字の成り立ち』)。
※「龜」という字は側面から見た亀の姿に由来する。脚の先が三つに分かれており鋭い爪のようになっているのは、卜占で用いるのは甲羅のみであり、それ以外の部位についての誤解があったからとも考えられる(落合淳思『甲骨文字に歴史を読む』)。
※甲骨文には「冊」という字が見られる。これは簡牘(竹簡・木簡の総称)を紐で編んだ形に由来する。また、墨書や朱書で文字が書かれたと思われる玉器・石器・陶器・甲骨が発見されているため、商代の簡牘は発見されていないものの、簡牘は使用されていたと推測される。1片に1行を記すものが「簡」、1枚に複数行記すものが「牘」である(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。
※植物の竹は様々なものに加工されて用いられたため、それに由来する文字「竹」は、竹"簡"の他に、「筆」「箱」「笛」といった漢字の部首にも用いられた(落合淳思『漢字の字形』)。
※甲骨文字は原始的な絵画文字ではなく、抽象化された文字である。そのため、甲骨文字以前から何らかの文字は使用されていたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。
※甲骨文字には祭祀対象として商王の祖先の名が見える。『史記』-殷本紀には王の祖先として「契」の名を伝える。しかし、当時は祖先を十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)の文字を使った名を贈るという文化があったものの、契から6代後の子孫までは十干に基づく諡号が見られないことや、甲骨文字に見られず商代の祖先祭祀の対象となっていないため、後世に創作された系譜であると考えられる。商代には王の祖先祭祀で筆頭にその名が記される「上甲」が始祖と見なされていたと考えられる。ただ、上甲の子孫される「匚乙」「匚丙」「匚丁」「示壬」「示癸」は十干の順番通りの諡号であることから、形式的に創作された商王の祖先であり、実際の祖先ではないとも考えられる。商代に最も祀られた祖先は「大乙(唐,湯王)」であり、唐を建国者とする点は『史記』と同じ認識であったと考えられる(落合淳思『殷』)。
※商の都であった殷墟から出土した甲骨文の「兕」は、一般的にサイを意味するが、『甲骨文合集』10405正に見られる「兕」は水牛のことだと思われる。ただ、殷墟ではサイの骨も見つかっており、生息していたようである(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。
・?年 商王,武丁は、帝雲に対して犠牲を焼き殺して捧げるべきか占った。(『甲骨文合集』14201)
※商における主神「帝」は、至高の存在と見なされていたため、人間の祀ることのできないと考えられたと思われる。そのため、代わりに帝の臣下とされる神「帝雲」に対して祭祀を行ったと考えられる(落合淳思『殷』)。
※商の祭祀では、家畜や人などの生贄を神に捧げるものがあった。「卯」という文字は家畜を切り裂いた姿、「燎」は薪に火を付けた様子を表しており、「伐」という文字は「人」の首を武器の「戈」で切って生贄にすることが由来とも考えられる。商の社会制度に農奴や奴隷がいたかは確認できず、生贄となる人間は戦争捕虜であった。都からは首を切られた遺体が発見されている(落合淳思『漢字の成り立ち』)。
・?年 商王,武丁は、5000人を摘発して、𢀛方を偵察させるべきか占った。(『甲骨文合集』6167)
※「方」というのは、商王朝に服属していない勢力を指す呼称である。𢀛方は商にとって、王都近くまで攻め込んでくる強大な敵であった。摘発を意味する文字「登」は、豆(高坏)に食物を乗せた形「皀」と両手から成り、神に供物を捧げることを意味する字形から転じて、王に人員を供給するという意味で用いられるようになった。3000人を摘発したことを伝える甲骨文字もあるので(『甲骨文合集』6641)、商王が摘発可能であった人員は3000~5000人程度であったと考えられる(落合淳思『殷』)。
・?年 商王,武丁は、 𢀛方を討つに際して、神の助けを受けられるか占った。(『甲骨文合集』1403)
※後の時代には𢀛(⿱工口)の文字が残らず、文献にも登場していないことから、𢀛方は武丁に敗北し、部族集団としての権力構造は崩壊したものと考えられる。甲骨文字には、他に商の敵対勢力として「土方」「蒙方」「巴方」「竜方」「危方」「妻方」「人方」などが見られ、文化の異なる勢力との戦争を多方面で行っていたようである(落合淳思『殷』)。
・?年 ?.丙辰 商王,武丁は、周方を攻めるべきか占った。(『甲骨文合集』6657正)
※周は商の外部にある国であり、「方国」として征討の対象となった。ただ、周の君主を派遣させるべきか占った甲骨文もあることから(『甲骨文合集』20074)、商に服属していた国であると考えられる(佐藤信弥『周』)。
・?年?.甲子 商王,武丁は、婦周の病が長引くか否かを占った。(『甲骨文合集』22265)
※「婦周」というのは武丁の妃であり、周から嫁いできた女性であると考えられる。周は商との婚姻関係を結んで、商王室の親族として貴族的な地位を得たと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前1225年頃 Aššurの君主,Tukulti NinurtaはBabilを陥落させ、Galzuの君主,Kaštiliašu IVを捕虜とした。(『Tukulti Ninurta叙事詩』)
※傀儡を置くことでBabilを統治させることになった。Babilの支配は北部に留まったものの、Tukulti Ninurtaは自身が「SumerとAkkadの君主」になったという自負を持つこととなった。「Tukulti Ninurta英雄叙事詩」にあるように、実際にBabilの神像を鹵獲したかは不明であるが、詩が語るように文書は齎されたと考えられる。Aššurの文書にはBabilの影響が見受けられる。叙事詩が作られたのもその影響と考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1216年 Adad-shuma-usur(Kaštiliašu IV)はGalzuの君主として即位した。
※Aššurの支配を脱し、Galzuを有力性を確立させることに成功したのである(渡辺和子『人類の起源と古代オリエント』)。
※紀元前13世紀末には、Aššurは領土を縮小させていた。それは自然環境の影響による食糧生産の低下からなる国力の減退と考えられる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※Aššurは短期間に君主が交代する混乱によって周辺諸国が離反し、「海の民」からの攻撃によって交易のための拠点を失うことで弱体化した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1213年頃 Aigyptosの君主,Ramesses IIは崩御した。
※Ramesses IIは66年10箇月の間在位しており、後継者であったKhaemwasetに先立たれている(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前1213年頃 MerenptahがAiguptosの君主として即位した。
※MerneptahはUgrtで青銅製の剣を作成させている。当時はKyprosからは銅が輸出され、Aigyptosからは黄金が輸出されており、UgarituはTros山脈から銀を得ていた。UgrtはAigyptosから安く仕入れた黄金をHattiへと高く売ることで利益を得ていた(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1200年頃? 商王,武丁は崩御した。
※『尚書』-無逸篇には武丁の在位年数は59年とあるが、当時は甲骨文として年数が記録されていなかった。実際は半世紀程度の在位であったと考えられる(落合淳思『殷』)。
・紀元前1200年頃? 祖己が商王に即位した。
※『史記』-殷本紀には、武丁の後に即位したのは祖乙の弟である祖庚であったとし、『荀子』と『呂氏春秋』には祖乙は父の武丁から疎まれたとある。しかし、祭祀を記す甲骨文字には、武丁と祖庚の間に祭祀対象として祖乙の名前が見られるため、実際は武丁の後に祖乙が即位していたと考えられる(落合淳思『殷』)。
※甲骨文字の字体には2つの系統があるため、それぞれの文字を刻む職人がいたと推測される。文の内容を決定するのは職人ではなく政治勢力であるため、2つの政治勢力が商にいたと考えられる。武丁の時代の甲骨文字と祖乙の時代の文字では、多く使用される字形が異なるため、それぞれの支持基盤は異なっていたと考えられる。そのことから、武丁と祖乙は実際の親子ではなかったと推測される(落合淳思『殷』)。
※武丁の時代以降、𢀛方と蒙方の記述は甲骨文字に見られなくなる。一方、危方と人方はその後も敵対勢力として記述されている。ただ、祖乙の時代の甲骨文字には、戦争に関する記述は少なくなっているため、平和的な外交政策を講じていたと考えられる(落合淳思『殷』)。
・?年 8.? 商王,粗己は、大乙、小乙、父丁に対してそれぞれ牛3頭を捧げるべきか占った。(『小屯南地甲骨』777)
※祖乙の時代には自然神に対する祭祀は減少し、歴代商王の祭祀が増加しており、祖先に対する祭祀によって宗教的な権威を強めることを企図したと考えられる。また、それまで混乱していた商王の系譜を整理して「祖辛」「祖丁」「小乙」を直系祖先として祀ることとし、また「河」「王亥」などの自然神を「高祖(遠い祖先の意)」として商王の系譜に組み込んでいる(『甲骨文合集』32028)。一方、武丁の時代には主神とされていた帝に対する信仰は僅かなものとなっており、祖先崇拝を推進する祖乙としては、祖先神の上位に位置づけられる帝は不都合であったと考えられる(落合淳思『殷』)。
※ウシは繁殖力の弱さや飼育費の高さから価格が高かった。当時は原価の高さが家畜の格に影響しており、ウシは重要な儀式で生贄に捧げられたのである。高価な犠牲を捧げることで、主催者となる君主の経済力を示す意図があったと考えられる。「牛」という漢字はウシの頭部の形に由来するものであり、「解」という漢字はウシを刀で解体することを意味する漢字であり、取り外されたウシのツノを表す漢字が「角」であると考えられる。ウシの次には同じく頭部の形が漢字の由来となる羊、その次に豚という家畜の格付けがなされていた(落合淳思『漢字の字形』)。
※当時の商の生産力では家畜は貴重であった。商王は貴重な家畜を大量に犠牲として用いることで、その経済力を誇示したのである(落合淳思『殷』)。
紀元前1200年頃 Arya人は聖典「Veda」の編纂を開始した。
※『Veda』は神祭りに関する聖典であり、祭文を集成した「Saṃhitā」祭式を解説する「Brāhmaṇa」「アーランニャカ」、哲学的思考を記した「upaniṣad」によって構成される。『ṛgveda』『Sāmaveda』『yajurveda』の3つ、もしくは『Atharvavedaḥ』を加えた4つからなる。ārya人の信仰はbrāhmaṇa(婆羅門)教と呼ばれる(以下、brāhmaṇa教と表記する)(馬場紀寿『初期仏教』)。
※brāhmaṇaは供物を献じる火、振る舞い粥を調理する火、家長の火という三祭火を据えて祭式を行い、神々を操って子孫繁栄や家畜増殖、などの願望を叶えるとされる。brāhmaṇaに祭式を執行してもらった者は、見返りとして贈与を行った(馬場紀寿『初期仏教』)。
※当時のArya人の宗教的な目的は、死後に天界に再び生まれる(生天)することである。その望みをかなえるためには、Vedaの説く祭祀を行う必要があり、実行可能なのはBrāhmaṇa階級のみと考えられた(清水俊史『ブッダという男』)。
・紀元前1200年頃 Krētē島のKnossos宮殿は炎上し破壊された。
※何者に寄るのかは不明である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※Egeの宮殿群の破壊とAigyptosとHattiの衰退により、東地中海の間を繋いでいた交易網は失われたと考えられる(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
・紀元前1200年頃 Kənā‘anの都市国家群は、破壊されるなり放棄されるなりして、衰退した。
※これはAigyptos第十九王朝が倒れた影響で、Kənā‘anの勢力争いが再び激しくなったとも推測される。また、凶作が続いたことを指摘する見解や、Syria・Palestina地方に「海の民」が移動したことが原因と考えられる(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。
・紀元前1200年頃 Kənā‘anの地の中に、ガラリヤ山地やSamaria山地、Néḡeḇ地方北部などに小規模な居住地が出現した。
〔参考〕『Sefer Yəhōšūa(Yəhōšūa記)』は、Iḇr(Hebrai)人がKənā‘anの地を征服したと記す。
※この居住はKənā‘an諸都市国家の影響圏外に集中している。この居住は、Kənā‘an諸都市国家の影響圏外に集中している。都市国家没落を理由として、生き残るために移住したのかもしれない。発掘調査の結果、穀物栽培や牧羊を行っていたことが判明した。居住者には、後のIḇr(Hebrai)人,Yisrā'el人を構成する人々の一部になったかもしれない(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。
※Kənā‘anの先住民で、恭順した人々を集団に加えることで、侵入者の「南の2部族」と先住民の「北の10部族」からなるIḇr人の12部族の共同体が形成されたとも考えられる。また、それまで Abraham、Yitskhawk、Ya'akovなどのそれぞれを祖先とする部族がいたところを、各Iḇr人部族の結束を強めるために、 Abrahamの子息がYitskhawk、その子息がYa'akovというように『Bereshit(創世記)』に記載されるように一つの系譜に繋がるように位置づけ直されたとも推測される(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前1200年頃 Mexico湾岸でOlmeca文化が成立した。
※大規模な祭祀施設や、3m程度の巨石を彫って人の頭部を模した像が作られた。亜米利加豹が女性を押し倒す様子を表した石彫は、Olmeca人の誕生を語る神話を表現したものとも考えられる(大貫良夫ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1200年頃 Sem語系Aram人は君主国を成立させた。
※Sem語系Aram人はSūrīyahDarmeśeq(英:Damascus)を拠点とし、驢馬や駱駝を用いた隊商を構成してOrient内陸部を結ぶ交通網を形成した。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』鈴木薫『文字と組織の世界史』上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。
※Aram人はPhoiníkē文字を基礎としてAram文字をつくった。Aram文字は西Asiaへと広がり、楔形文字に代わって使用されるようになった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
※AššurではAram文字を羊皮紙やpapyrus紙に書く秘書が用いられることとなった。文字数の少なさも普及の要因である(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前12世紀初頭 Uagrituは「海の民」に滅ぼされた。
・紀元前1186年頃 Meli-Šipak IIがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。
※Meli-Šipak IIの時代には、記号としての神々の表現が体系化された。天空神Anuと大気神Enlilが角冠として表されたのは、天空や空気を記号として表現することが困難であったため、神々一般の特徴とされた角冠を以て象徴としたとも推測される(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1180年頃 「海の民」はAigyptosに侵入を図るが、撃退された。
※Aiguotosは遊牧民からの侵攻を防衛するために、「海の民」の一部であったP'lishtī人とTjeker人をPalestina南部沿岸地域に植民した。Palestinaという地名は、『Sefer Shoftim(士師記)』や『Sefer Shmuel(Shmuel記)』において「Plišt'īm」と呼ばれる人々に由来するのである(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※エジプトは「海の民」を撃退したものの、Syria・Palestinaからは撤退せざるを得なくなる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前1180年頃 Hatti国は滅亡した。
※「海の民」から攻撃されたことによって滅亡したとされてきた。気候変動の影響なども考えられるが、実際の理由は不明である(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
※Hattiが崩壊したころ、製鉄技術が地中海に広まった。これには諸説あり、Hattiが独占していた製鉄技術が、その滅亡とともに広まったという説もあれば、それ以前から製鉄は行われていたという説もある。また、青銅の原料錫が不足したために鉄器の需要が高まり、製鉄技術の改良が進んだという説もある(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※「海の民」と接触する中で、中央Asia遊牧民の子孫であるKənā‘an人の一部は海洋民となり、船を用いて海に出向くようになる。それがPhoiníkē人である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。
※Phoiníkē人はSidon、Tyrusといった都市国家を築き、Lebanon杉を使った船により地中海交易を行っていた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
※海は高次の力として崇拝・祭祀の対象であったが、Phoiníkē人は海に対する奴隷的な神事からの解放を望み、知性を用いて自然を支配することに成功したとも評される(Georg Hegel『東洋の歴史について』)。
※Phoiníkē人は東地中海にある根拠地に首都Tyrusを築き、ˈky.pros島、Graeciaから、西地中海へと進出。北AfricaのCarthāgōやIbérica半島に植民市を築いた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。
※Sardigna島にある、ziqquratに似た建造物は、Phoiníkē人の影響によるものと考えられる。各地の建築様式が混入したSardignaでは、円柱状に石を積み上げた、nuragheを建てる巨石文化が形成された(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。
※Phoiníkē人が、神聖文字を簡略・表音文字化したSinai文字を参考にして生み出した、右から左への横書き文字alphabetは、Phoiníkē人の交易とともに地中海世界に広まった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。
・紀元前1165年頃 Shutruk-NakhunteがElamの君主となった。
※Shutruk-NakhunteはGalzu(Kassit)王朝の治めるBabyloniaの都市の多くを占領し、貢納を要求した(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1157年頃 Marduk-kabit-ahheshuはIsinで君主となった。
※Isinで創始されたため「Isin第二王朝」と呼ばれる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1155年頃 ElamはGalzu(Kassit)王朝を滅ぼした。
※Hammu-rapi法典碑やBabilの主神,Mardukの像、kudurruがElamに持ち去られた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Elamの盛期にはSumerの諸都市は荒廃し、既存の政治・経済的な基盤を失うこととなった(前田徹『都市国家の誕生』)。
・紀元前1353年頃 BabyloniaにIssin第二王朝が成立した。
※それまでのGalzu(Kassit)王朝と同じくkudurruが作成されるなど、社会・文化的に断絶はなかった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前12世紀後半(推定) 肥沃なイズレエル平野を巡って、争いが起き、Iḇr(Hebrai)人部族連合がKənā‘an北部の都市国家連合を破った。
※この時点で、Iḇr(Hebrai)人は「Yisrā'el」という部族連合としての纏まりを持っていたようである。『創世記』32章29節からは、「Yisrā'el」とは「el戦い給う」「el支配し給う」という意味だと分かる。「el」とはSem系言語における神を意味する言葉である。Phoiníkē・Kənā‘an神話の最高神の固有名詞でもある。都市国家との対立という困難な状況下で、部族連合の結束力を高めるため、elよりも強い神が望まれた。こうして、elと同一視される形で、敵を打ち負かしIḇr(Hebrai)人を解放する神、YHVHの信仰がはじまったとも推測される(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。
※Yisrā'elはJacobの別名とされており(『Bereshit(創世記)』)、当初はKənā‘an先住の北10部族を指す名称であったが、12部族全体の名称になったとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前1125年頃 Isinの君主としてNebuchadnezzar Iが即位した。
※Nebuchadnezzar IはBabilからElam勢力を排除して支配を確立させ、Babilの主神,Mardukの像をElamからBabilに戻している。以降、Mardukの神としての地位は高められた。
・紀元前12世紀後半 Hattiは滅亡した。
・紀元前1114年頃 Tiglath Pileser ⅠがAššurの君主の君主として即位した。
※Tiglath Pileser Ⅰの時代には「中期Aššur法典」が編纂された。既存のMesopotamiaの法典を参考にしているが、男性の家に2年間同居していた寡婦は契約を交わしてなくとも妻と見なされると規定されるなど、女性の権利保護の傾向が窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Tiglath Pileser Ⅰの時代にはAnatoria東部や西方のAram系諸国への遠征、Babilに侵攻するなど衰退した勢力を回復させる動きを見せた。しかし、飢饉や西方からのAram人の侵入などにより支配領域拡大に失敗した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1100年頃 殷において青銅器に文字が鋳出されることとなった。
※金属に刻まれているため「金文」と呼ばれる。装飾的で複雑な文字ではあるものの、当時は筆も使用されていたため、金文よりも簡単な字体の文字も使用されていたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。
・紀元前1100年頃 Mesopotamia北部において山岳交通に双峰駱駝が利用されるようになった。
※駱駝はMesopotamia北部のようなsteppe地帯における輸送に適した動物であった。一方、南部では駱駝は普及せず驢馬が用いられた(小林登志子『古代オリエント全史』)。