個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1200~1100年

・紀元前1200年頃 Kənā‘anの都市国家群は、破壊されるなり放棄されるなりして、衰退した。

※これはエジプト第19王朝が倒れた影響で、Kənā‘anの勢力争いが再び激しくなったとも推測される。また、凶作が続いたことを指摘する見解や、Sūrīyah・Palestina地方に「海の民」が移動したことが原因と考えられる(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

紀元前1200年頃 ārya人は聖典「Veda」の編纂を開始した。

※『Veda』は神祭りに関する聖典であり、祭文を集成した「Saṃhitā」祭式を解説する「brāhmaṇa」「アーランニャカ」、哲学的思考を記した「upaniṣad」によって構成される。『ṛgveda』『Sāmaveda』『yajurveda』の3つ、もしくは『Atharvavedaḥ』を加えた4つからなる。āryaの信仰はbrāhmaṇaと呼ばれる(以下、ブラーフマナ教と表記する)(馬場紀寿『初期仏教』)。

※brāhmaṇaは供物を献じる火、振る舞い粥を調理する火、家長の火という三祭火を据えて祭式を行い、神々を操って子孫繁栄や家畜増殖、などの願望を叶えるとされる。brāhmaṇaに祭式を執行してもらった者は、見返りとして贈与を行った(馬場紀寿『初期仏教』)。

※当時のārya人の宗教的な目的は、死後に天界に再び生まれる(生天)することである。その望みをかなえるためには、Vedaの説く祭祀を行う必要があり、実行可能なのbrāhmaṇaは階級のみと考えられた(清水俊史『ブッダという男』)。

・紀元前1200年頃 Krētē島のKnossos宮殿は炎上し破壊された。

※何者に寄るのかは不明である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前1200年頃 Kənā‘anの地の中で、それまでほとんど人が住んでいなかった、ガラリヤ山地やSamaria山地、Néḡeḇ地方北部などに小規模な居住地が出現した。

〔参考〕『ヨシュア記』は、Iḇr(Hebrai)人がKənā‘anの地を征服したと記す。

※この居住は、Kənā‘an諸都市国家の影響圏外に集中している。都市国家没落を理由として、生き残るために移住したのかもしれない。発掘調査の結果、穀物栽培や牧羊を行っていたことが判明した。居住者には、後のIḇr(Hebrai)人,Yisrā'el人を構成する人々の一部になったかもしれない(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

・紀元前1180年頃 「海の民」はエジプトに侵入を図るが、撃退された。

※エジプトへの侵入に失敗した「海の民」は行き場所を失い、その一部は、おそらくエジプトの黙認のうえでSūrīyah・Palestinaの海岸地方に定住した。この集団が、エジプトの文献で「ペレシェティー」、『士師記』や『Samuel記』にて「p'lishtīm」と呼ばれる人々である。Palestinaという地名は、Graecia時代以降に、ペリシテ人の地という意味の「Philistîa」と呼ばれたことに由来する(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

※エジプトは「海の民」を撃退したものの、Sūrīyah・Palestinaからは撤退せざるを得なくなる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・「海の民」の影響によりHattiが崩壊したころ、製鉄技術が地中海に広まった。これには諸説あり、Hattiが独占していた製鉄技術が、その滅亡とともに広まったという説もあれば、それ以前から製鉄は行われていたという説もある。また、青銅の原料錫が不足したために鉄器の需要が高まり、製鉄技術の改良が進んだという説もある(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※「海の民」と接触する中で、中央Asia遊牧民の子孫であるKənā‘an人の一部は海洋民となり、船を用いて海に出向くようになる。それがPhoiníkē人である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Phoiníkē人はSidon、Tyrusといった都市国家を築き、Lebanon杉を使った船により地中海交易を行っていた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※海は高次の力として崇拝・祭祀の対象であったが、Phoiníkē人は海に対する奴隷的な神事からの解放を望み、知性を用いて自然を支配することに成功したとも評される(Georg Hegel『東洋の歴史について』)。

※「wine」という言葉は、「葡萄を発酵させる」というPhoiníkē人の言葉に由来する。

※Phoiníkē人は東地中海にある根拠地に首都Tyrusを築き、ˈky.pros、Graeciaから、西地中海へと進出。北AfricaのCarthāgōやIbérica半島に植民市を築いた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

※Sardignaにある、ziqquratに似た建造物は、Phoiníkē人の影響によるものと考えられる。各地の建築様式が混入したSardignaでは、円柱状に石を積み上げた、nuragheを建てる巨石文化が形成された(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Phoiníkē人が、神聖文字を簡略・表音文字化したSinai文字を参考にして生み出した、右から左への横書き文字alphabetは、Phoiníkē人の交易とともに地中海世界に広まった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

Sem語系Aram人はSūrīyahのDarmeśeq(英:Damascus)を拠点とし、驢馬や駱駝を用いた隊商を構成してOrient内陸部を結ぶネットワークを形成した。紀元前1200年ごろには君主国を成立させている(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』鈴木薫『文字と組織の世界史』上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

※Aram人はPhoiníkē文字を基礎としてAram文字をつくった。Aram文字は西Asiaへと広がり、楔形文字に代わって使用されるようになった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前12世紀後半(推定) 肥沃なイズレエル平野を巡って、争いが起き、Iḇr(Hebrai)人部族連合がKənā‘an北部の都市国家連合を破った。

※この時点で、Iḇr(Hebrai)人は「」Yisrā'elという部族連合としての纏まりを持っていたようである。『創世記』32章29節からは、「Yisrā'el」とは「el戦い給う」「el支配し給う」という意味だと分かる。「el」とはSem系言語における神を意味する言葉である。Phoiníkē・Kənā‘an神話の最高神の固有名詞でもある。都市国家との対立という困難な状況下で、部族連合の結束力を高めるため、elよりも強い神が望まれた。こうして、elと同一視される形で、敵を打ち負かしIḇr(Hebrai)人を解放する神、YHVHの信仰がはじまったとも推測される(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

・紀元前1100年頃 殷において青銅器に文字が鋳出されることとなった。

※金属に刻まれているため「金文」と呼ばれる。装飾的で複雑な文字ではあるものの、当時は筆も使用されていたため、金文よりも簡単な字体の文字も使用されていたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。