・紀元前14世紀 商は文化圏を拡大させた。
※商は北と南に向けて大きく拡大した。北方は商王朝の建国以前に商の人々が居住していたため支配領域に組み込むことが行いやすかったと考えられる。南方に対しては長江中流域にある銅鉱山の獲得と、貴重品であった子安貝の交易網の掌握を目的としたとも考えられる(落合淳思『殷』)。
・紀元前1390年頃 Aiguptosの君主としてAmenhotepが即位した(AmenhotepⅢ)。
※Amenhotep Ⅲの名の刻まれたfaience板がGraecia各地から出土していることは、AigyptosとGraeciaの交流が続いていたことを物語る(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
※Mitaanniの君主,Šauštatar IIは娘のKilu-HepaをAmenhotepⅢに嫁がせている(「Amarna文書」)。
・紀元前1380年頃 ArtashumaraがMitaanniの君主として即位した。
・紀元前1380年頃 Mitaanniの君主,Artashumaraは廷臣によって殺害された。廷臣はArtashumaraの弟,Tušrattaを新たな君主として擁立した。
※君主が暗殺されたことから、当時のMitaanniの治世が不安定であったことが窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・ 紀元前1374年頃 Kadašman-Enlil IがGalzu(Kaššu)の君主となった。
※Kadašman-Enlil Iの姉妹はAigyptosの君主,Amenhotep IIIの妻となっており、Aigyptos側からは娘も君主に嫁がせるよう求められている。Galzu側も君主の娘を嫁がせるようAigyptosに要請しているが、昔からAigyptosの君主の娘は外国人に嫁がせることはなかったとして断られ、変わりに君主の娘のような美女を送るよう求めている(「Amarna文書」)。Amenhotep Ⅲとの文書通信の内容は、多くが政略結婚と贈答品に関するものであった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1370年頃 Šuppiluliuma IがHattiの君主として即位した。
※Mitaanni国内で、君主,Tušrattaと対立する勢力は領土の東部でArtatama IIを擁立しŠuppiluliuma Iの庇護を受けた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1370年頃 Niqmaddu IIがUgarituの君主に即位した。
※先代のAmmittamru IからAigyptosと交流していたことが「Amarna文書」から理解できる。Niqmaddu ⅡはAigyptosに対して医者の派遣を要請しており、Aigyptosの医者が重宝されていたことが窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1360年頃 Hatti君主,Šuppiluliuma IはMitaanniの君主,Tušrattaを攻めて勝利した。
※Hattiは北SyriaのMitaanni支配下の領土を奪い、さらに首都にまで攻め込んだ(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・起源1359年頃 Burna-Buriash IIがGalzu(Kaššu)の君主となった。
・紀元前1353年頃 Ashur uballitがAššurの君主となった。
※Ashur uballitの時代にAššurはMitaanniの支配から独立した。NinevehとArbelaを結んで支配領域を拡大し、自身は「Aššurの地の君主」を称した(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
※Mitaanniの圧力に抗しえたのは、HattiがMittanniに侵攻して打撃を与えていたことも理由にある(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Ashur uballitはAigyptosに使者と書簡を送り、戦車・瑠璃・馬を贈った見返りに黄金を受け取っているが、Mitaanniの君主と比べて量が少ないことを抗議している。当時の西Asiaの情報は遠方にまで行き渡っていたことを示している。Galzu(Kaššu)の君主,Burna-Buriash IIも書簡を送り、AššurはGalzuの属国であり、Galzuに無断で使者を派遣したのだと主張した。国際社会に参入してきたAššurを牽制しようとしたのだと考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Hattiの君主,Šuppiluliuma Iの妻はGalzu(Kaššu)の君主の娘である。当時勢力を拡大していたAššurを警戒して、Galzu(Kaššu)を交流を深めた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1352年頃 AmenhotepⅣ(Amenhotep Ⅲの子息)がAigyptosの君主となった。
※Galzuの君主,Burna-Buriash IIはAmenhotepⅣと文書通信を行っていたが全ての文面がが友好的な内容ではない。Galzuの君主からは瑠璃や馬などが贈られたが、贈答品を運ぶ使者が途中で襲われたことやAigyptosからGalzuへの贈答品の量が不十分であるなどの苦情も述べられている。Galzuから贈られた瑠璃は、Afghānistānを産地とするものであった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Mitaanniの君主,Tušrattaは成長すると反抗勢力を粛清し、Amenhotep Ⅲに娘を嫁がせて国家の関係性を深めた。娘を嫁がせる際にはŠauška女神の像も贈答品として贈っている。ŠauškaはHurri人の神であり、BabilとAššurにおけるIshtar女神に相当する(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1350年頃 Tušrattaは子息の1人に殺害された。
・紀元前1350年頃? 商は混乱状態となった。
※『史記』-殷本紀には、中丁が王の時代以降に王位継承を巡る紛争が生じたとある。商代中期以降の商王による祖先を纏めて祀る「直系合祀」において、「祖乙」以降の商王の名が見られない。そのため、祖乙以降の系譜は混乱していたと考えられる。祖乙が後の祭祀において重視されたのは、『史記』や『尚書』が語るような名君だったからではなく、彼が商が統一されていた時代の最後の王であり、祖乙の子孫であることを正統性の根拠とする勢力群が争っていたのだ考えられる(落合淳思『殷』)。
・紀元前1350年頃 Amen hetep IVは、自身の名Amen hetep(Amen神は満たされた)をAkh-en-Aten(Aten神にとって好ましい)に改名した。
・紀元前1347年頃 Akh-en-Atenは、Wo'se(希:Thebai)から、Aten神の世界を意味する、Akhetatenと名付けた都に遷都した。
※神官勢力の影響を削ぐことを考えたAkh-en-Atenは、Aten神以外の神を信仰することを禁じた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※Akhetatenにおいては列強の諸君主らによる贈答品の交換や婚姻政策が行われていた(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。
※Aššur、Ḫa-at-tu-ša(羅:Hetthaei)、Mitaanni、Babylōníaの君主とは、Akkad語を楔形文字で刻んだ書簡を用いた交信が行われていた。Per-aaの君主号を持つAkh-en-Atenは、諸外国との外交におてはAkkad語で君主を意味する「sarru」を用いた。各君主は書簡に「ahi(我が兄弟)」という表現を使用しており、対等な立場において外交が行われていたことを窺わせる。そして使節団の饗応に際して礼儀作法が確立することとなった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。
※Amrna文書には、Ugrtの君主,Ammittamru ⅠがAigyptosの君主を「太陽」と呼んでいるものがある。Hattiの拡大に伴い同盟を結んだのである。下僕として足元にひれ伏すことを述べる文面は、卑屈さすら感じさせるものであり、大国と対峙するうえでの回避できない態度であったと考えられる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※Akh-en-Atenは対外政策を放棄しており、それに乗じて、Kənā‘anの諸都市国家には、勢力を拡大するものや、エジプトから独立するものがいて、勢力争いをはじめた。また、ハビルもしくはハピルと呼ばれる、法の保護の外にいる集団が、Palestina付近に現れて略奪行為を行った。(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。
※Akh-en-Atenは宗教改革に専念しており、対Asia情勢に関心を示さなかったため、Mitananiとの同盟関係は約半世紀後には破綻することとなる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※Akhetatenには自身を美化していない肖像を製作せている。自身の外見的欠点まで含めて表現してもらいたかったとも、預言者としての自身の個性を重視し、あるがままに表現させたとも考えられる(Ernst Gombridge『美術の物語』)。
・紀元前14世紀中頃 Hattiの君主,Šuppiluliuma IはGalzu(Kaššu)の君主の娘を妻に迎えた。
※Šuppiluliuma IはMitaanniの攻略に失敗したため、周辺の小国との同盟やGalzuとの婚姻を通して再び攻めるための準備を整えた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前14世紀中頃 HattiはMitaanniを征服し、属国とした。
※かつての君主,Tušrattaの子息,Šattiwazaは、Hattiの君主,Šuppiluliuma Iの娘婿となり、庇護を受けてMitaanniの君主となった。しかし後にŠattiwazaの子息,Piyaššiliによって北西Syriaが統治されることになったため、Mitaanniは領土を縮小させた。その後はHattiとAššurの緩衝地帯的に存続することとなった。(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※宗主権をHattiに認める条約において、Ugrtの君主はHattiの君主のことを「太陽」と呼んでいる。Syria地域をHattiが纏めて支配するようになったことで、経済活動は促進されUgrtは繁栄することとなる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1336年頃 Akh-en-Atenの死後、その子息,Tut ankh Atenが9歳で後を継いだ。彼はTut anhk Amenに改名した。
※AigyptosはAmen-Ra信仰に回帰した。Akh-en-Atenの像の多くは破壊され、記録もほとんど抹消された(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前1336年頃 Hattiの君主,Šuppiluliuma Iは崩御した。
・紀元前1335年頃 Muršili IIがHattiの君主として即位した。
※君主の病没が続いたため、Muršili IIは疫病を止めるために天候神に対する儀式を行っている。Hatti国において支配層のNeša語話者は、先住のHatti人の他にḪuurri人、Aššurの信仰する神を需要した。特に信仰したのは太陽女神Arinnaである。Muršili IIの時代には周辺諸国で反乱も発生したが、平定することに成功した。(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1333年頃 Kara-hardashがGalzu(Kaššu)の君主となった。
※Kara-hardashの母はAššurの君主,Ashur uballitの娘である。Galzu(Kaššu)はAššurの圧力を受け、譲歩する立場になっていた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1333年頃 Galzu(Kaššu)の君主,Kara-hardashは殺害された。
※Aššurの干渉を嫌う勢力による暗殺であった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1332年頃 Nazi-BugašがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。
※素性は不明である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1332年頃 Aššurの君主,Ashur uballitはGalzu(Kaššu)の君主,Nazi-Bugašを処刑した。
・紀元前1332年頃 Kurigalzu IIがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。
※Kara-hardashの子息つまりはAššurの君主,Ashur uballitの曾孫であるのか、それともBurna-Buriash IIの子息かは不明である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・1327年頃 Aigyptosの君主,Twt-anx-Imnは崩御した。
※墓に副葬された宝物には、Aten信仰からなる新様式の玉座などがあった。妻のAnkhesenamenとともに背に肖像が描かれており、椅子に座った姿や夫妻がともに同じ大きさで表されていることなど、それまでのAigyptosのような様式的なものではなかった。しかし、Twt-anx-Imnの生前より既存の信仰が復活していたこともあって、その後のAiguptosに新たな美術様式が誕生することはなかった(Ernst Gombridge『美術の物語』)。
・紀元前14世紀後半 Mitaanniは滅んだ。
※理由は不明である。Miata-an-niの滅亡に乗じる形で、Aššurの君主,Ashur uballitは勢力を拡大させることとなった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1328年 Ashur uballitは崩御した。
・紀元前1323年頃 Twt-anx-Imnは崩御した。
※Twt-anx-Imnの木乃伊遺体に被せられた仮面には、Indoの産物である瑠璃が使用されていた。Elam商人によって運ばれたものと思われる。
・紀元前1315年頃 Muwatalli IIがHattiの君主として即位した。
・紀元前1305年頃 Adad-nirari ⅠがAššurの君主として即位した。
※Adad-nirari Ⅰ以降、Aššurの君主は称号に、かつてShamshi Adadが用いた「世界の君主」を加えることとなった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Mitaanniを屈服させて朝貢を行わせるなど、Ashur uballitの崩御後に減退したAššurの勢力を再び盛んにした。その勢力はHattiにも匹敵するようになり、Hattiの君主,Muwatalli IIに対して書簡で「兄弟」と呼ぶ振る舞いをしている(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。