個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1400年~1300年頃

・紀元前1350年頃 Amen hetep IVは、自身の名アメンホテプ(Amen神は満たされた)をAkh-en-Aten(Aten神にとって好ましい)に改名した。

・紀元前1347年頃 Akh-en-Atenは、Wo'se(希:Thebai)から、Aten神の世界を意味する、Akhetatenと名付けた都に遷都した。

※神官勢力の影響を削ぐことを考えたAkh-en-Atenは、Aten神以外の神を信仰することを禁じた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Akhetatenにおいては列強の諸君主らによる贈答品の交換や婚姻政策が行われていた(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

※ʾāthor、Ḫa-at-tu-ša(羅:Hetthaei)、Mi-ta-an-ni、Babylōníaの君主とは、Akkad語を楔形文字で刻んだ書簡を用いた交信が行われていた。Per-aaの君主号を持つAkh-en-Atenは、諸外国との外交におてはAkkad語で君主を意味する「sarru」を用いた。各君主は書簡に「ahi(我が兄弟)」という表現を使用しており、対等な立場において外交が行われていたことを窺わせる。そして使節団の饗応に際して礼儀作法が確立することとなった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※Akh-en-Atenは対外政策を放棄しており、それに乗じて、カナーンの諸都市国家には、勢力を拡大するものや、エジプトから独立するものがいて、勢力争いをはじめた。また、ハビルもしくはハピルと呼ばれる、法の保護の外にいる集団が、パレスティナ付近に現れて略奪行為を行った。(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

・紀元前1332年頃 アクエンアテンの死後、その子息トゥトゥアンクアテン(アテン神の似姿)が9歳で後を継いだ。彼はトゥトゥアンクアメン(アメン神の似姿)に改名した。

※エジプトはアメン・ラー信仰に回帰した。アクエンアテンの像の多くは破壊され、記録もほとんど抹消された(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前1323年頃 トゥトゥアンクアテンは死去した。

※トゥトゥアンクアテンのミイラ遺体に被せられたマスクには、インドの産物であるラピスラズリが使用されており、エラム商人によって運ばれたものと思われる。

・紀元前1300年? 商王,盤庚は殷に遷都した。(『竹書紀年』夏商周断代工程)

・紀元前1300年頃 商において甲骨文字が用いられるようになった。

※甲骨文字は原始的な絵画文字ではなく、抽象化された文字である。そのため、甲骨文字以前から何らかの文字は使用されていたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

・エジプト第19王朝の君主ラムセスⅡはAbu Simbel神殿やRamsseumを建造した。

・紀元前1275年 エジプトとHattiとの間で、カデシュにて大規模な戦争が後に起こるが、引き分けて和平を結んだ。

・紀元前1200年頃 カナーン都市国家群は、破壊されるなり放棄されるなりして、衰退した。

※これはエジプト第19王朝が倒れた影響で、カナーンの勢力争いが再び激しくなったとも推測される。また、凶作が続いたことを指摘する見解や、シリア・パレスティナ地方に「海の民」が移動したことが原因と考えられる(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

・紀元前1200年頃 クレータ島のクノッソス宮殿は炎上し破壊された。

※何者に寄るのかは不明である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前1200年頃 カナーンの地の中で、それまでほとんど人が住んでいなかった、ガラリヤ山地やサマリア山地、ネゲブ地方北部などに小規模な居住地が出現した。

〔参考〕『ヨシュア記』は、ヘブライ人がカナーンの地を征服したと記す。

※この居住は、カナーン都市国家の影響圏外に集中している。都市国家没落を理由として、生き残るために移住したのかもしれない。発掘調査の結果、穀物栽培や牧羊を行っていたことが判明した。居住者には、後のヘブライ人,イスラエル人を構成する人々の一部になったかもしれない(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。