個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1800~1700年頃

・紀元前1792年 Babylōníaの君主,Sin-Muballitより、子息のHammu-rapi(Hammurabi)は君主位を継承した。

・紀元前1783年 Babylōnía君主Hammu-rapiは、Ekallātum君主,Ishme Daganと協力し、Buranun(Euphrátēs)川の中下流域の都市、ラピクムを攻めた。しかしEshnunna君主,Dādušaが先に同地域を占領し、ヌフム地方の都市ハナトまでも占領した。そこにIshme Daganの父Aššur君主Shamshi Adadが介入してHammu-rapiらとDādušaは協定を結び、ラピクムとヌフム地方はHammu-rapiのものとなった。

・紀元前1779年 Eshnunna君主Dādušaは死去し、Ibal-pi-El IIが新たな君主となった。その後もサムシ アッドゥとの同盟は継続された。

・紀元前17757年夏 Shamshi Adadは死去し、Ishme DaganがAsshur君主となった。

・ma-ri君主国の旧君主族の末裔Zimri limは、Ishme Daganの弟の軍を放逐してma-riを奪還した。

※アシュナックム、イラン、ツラ、アンダリグ、カッタラなどの国がʾāthorに対して反乱を起こし、ʾāthorの勢力圏は減退した(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史 1』)

・ʾāthorのIshme Daganは、Eshnunna君主Ibal-pi-El-Ⅱに同盟の継続を要請するが、Ibal-pi-El-Ⅱはそれを拒否して逆に攻め込んだ。Ishme DaganはHammu-rapiのもとに亡命した。

・紀元前1772年 ma-ri君主国にて、ヤミン系諸部族が蜂起した隙に、Eshnunna君主国はma-ri君主国に攻め込んだ。

※結果、Eshnunnaはシュバト エンリル(Shamshi Adadの居城)を奪還したほか、スフムの地の多くを奪取した。Eshnunnaの拡大は防ぎたかったBabylōníaはma-riを支援したため、Eshnunnaは西方領土を諦めて撤退した(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史 1』)

・紀元前1770年 Eshnunna君主国とma-ri君主国は和平を結んだ。

・紀元前1765年春 Elamはma-ri、Babylōníaなどに従軍を要求して、Eshnunna君主国のEshnunna市を包囲した。

※Elamに協力したIshme Daganはエカラトゥム市への帰還に成功し、Hammu-rapiはマンキスムとウピを占領した。

・Elam君主ツィワパラルフフパクは、Hammu-rapiがEshnunnaの都市を占領したことに怒り、Hammu-rapiを恫喝し、マンキスムとウピを奪ってBabylōníaに侵攻した。

・紀元前1765年 ma-ri君主Zimri limと、その義父Yamhad君主Yarim-Limは、Babylōnía君主Hammu-rapiと同盟を結んだ。

※共通の敵Elamに対抗するためである(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史 1』)

・紀元前1764年 Yamhad君主国からBabylōníaに援軍が来て、アタムルムの寝返りもあり、Elam軍はEshnunnaの領内を荒らした後に撤退した。

・紀元前1763年 Babylōnía君主Hammu-rapiは、同盟国のma-riの援軍を引き連れて、対Elam同盟に参加しなかったLarsa君主国を攻めた。Larsa君主Rim Sinは助命され、一族はBabylに連行された。

※Hammu-rapiは堅固なLarsaの城壁を破壊したが、住民には寛大であり、略奪的な征服ではなく下Mesopotamia南部全土への領土拡大が目的であったことが見てとれる(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史 1』)。

※Larsaの宮が所持していた土地などはBabylōníaの宮が管轄した。その土地は小作人に耕させるか、特定の個人に与え、軍務や労役を課した。しかし、Babylōníaの広大な領土の、どこまで適用されたかは不透明である(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史』)。

・紀元前1763年 アンダリグ君主アタムルムが死去した。Hammu-rapiはアンダリグの勢力争いに介入した。

・紀元前1762年 BabylōníaとEshnunnaの争いがあった。ma-riはEshnunnaに味方した。結果としてBabylōníaが勝利し、マンキスムを獲得した。(「年名」)

・紀元前1761年 Hammu-rapiはma-ri君主国を征服し、城壁を破壊した。(「年名」)

※自国の城壁建造と敵国の城壁破壊は君主の力を誇示するのであった。城壁の破壊は都市として存続不可能なことを意味する(小林登志子『文明の誕生』)。

※その後マルギウム君主国も併合し、BabylōníaはMesopotamiaにおける競合国家を排除した(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史』)。

※Hammu-rapiは、Sumer古来の慣習法などを元にして、財産、奴隷、家族、商取引、価格、賃金、利息などを規定するHammu-rapi法典を制定した。Hammu-rapi法典では「目には目を歯には歯を」という同害報復の原則が規定されたが、貴族は奴隷よりも処罰は重くなかった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※法典の制定意図としては、社会的弱者である女児、寡婦などの正義の回復や、社会的弱者の抑圧を防ぐことが語られている。また、衣料、飲料、食料をもたらす点で羊は重要な家畜であったため、民は羊に、君主は羊飼いに例えられている(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※「目には目を」という同害報復の規定は、過剰な報復を抑制して、社会の秩序を保つためのものであった(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史』)。

※Babylōníaでは、Akkad語シュメール文字によって記され、『ギルガメッシュ叙事詩』が訳されるなどした(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)

※Babylōníaでは数学が発展し60進法が生み出され、占星術の隆盛により天体の動きへの関心が芽生えて天文学へと繋がった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)

・紀元前1749年頃 Hammu-rapiの子息,Samsu-IlunaがBabyloniaの君主となった。

※碑文によれば、Samsu-IlunaはKiŝ市の城壁を修復したという。都市を防衛するための濠を掘り、掘り返した土を煉瓦の材料として城壁に用いるという手法は合理性を指摘される(小林登志子『文明

誕生』)。

・紀元前の1730年頃 AnittaがHattiの君主となった。

※「Anittaの功業」文書によれば、中央Anatolia全域を統一したという。ただ、文書の粘土板は同時代のものではないため、事実かは不明であり、Hattiの人々が信じていたことを示すものである。ʾāthor商人が中央Anatoliaに来なくなったため、同時代史料は少ない。中央Anatoliaの都市遺跡には戦乱による火災の跡があるため、戦乱を忌避したのかもしれない(津本英利『ヒッタイト帝国』)。

・HattiやのMi-ta-an-ni影響を受けた西Asiaの人々は、政情の安定しないAigyptosに攻め込み、Aigyptos北部Delta地帯を征服してAigyptos第15、16王朝を立てた。

※征服者たちは現地人よりHyksos(異民族の支配者たち)と呼ばれた。上Aigyptosの勢力はヒクソクに対して贈り物を与えなければならない屈辱を味わった(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

・紀元前1700年頃 Kushの住人はAigyptos勢力を排除した。

※Kushは独立を保ち、Aigyptosとは対等な交易を行うようになった(山口昌男『アフリカ史』)。

・紀元前1647年から1年後にかけて Babylōníaの書記官によってAkkad語による神話が記された。

※知恵の神Eaが、主人公Atra-Hasis(大賢者の意)に船を造るよう命じるといったもので、内容は「Ziusu-draの洪水神話」や『Gilgameš叙事詩』と似たものになっている(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。