個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1600年~1500年頃

・紀元前1600年頃 〔参考〕『史記』「殷本紀」によれば、子履(天乙)は夏王朝を滅ぼして王になり(湯王)、王朝「殷」を立てたという。

※殷という王朝名は、後世に付けられたものである。中原最古の王朝であったため、別の王朝と区別するために、王朝名を付ける必要もなかったと思われる(落合淳思『殷』)。

※甲骨文においては、殷は「大邑商」を自称しており、都城である「大邑」こそが王朝そのものであるという自認を持っていたと考えられる(吉本道雅「「中華帝国」以前」『中華世界の盛衰』)。以下、殷のことを商と表記する。

※当時の国の単位は「邑」という城である。裕福になり人口が増えた邑の中には「村」が形成されたのである。邑同士が結びついて形成されたのが商である(渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想』)。

※商は大邑、族邑、属邑(小邑)の連合体、「邑制国家」であった(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※大邑は都邑を従わせ、都邑は属邑を支配するという、大きな邑が小さな邑を支配するという関係が成り立っていたと考えられる。商王朝は貢納をした者に対して青銅器を下賜するという関係であったと思われる(吉本道雅「「中華帝国」以前」『中華世界の盛衰』)。

※甲骨文字において、湯王,履は「大乙」や「唐」と呼ばれており、実名は「唐」であったと考えられる。唐が都を置いた場所は甲骨文字にも見られ、二里岡遺跡の場所にあったと思われる(落合淳思『殷』)。

※湯王,唐は祭祀対象として見られるのみであり、具体的な事績は不明である。履が滅ぼしたという夏最後の王,履癸(桀)は実在が確認されない(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※商は二里頭文化を継承して発展した二里岡文化を基盤とする。陶寺遺跡の文化から影響を受けたとも推測される青銅器を用いており、武器や工具として優れ金色に輝くことから支配者の権威を示したとも考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※商においては青銅器鋳造の技術が発展し、祭祀用の食器、酒器、車馬の器具、工具が作られた。巨大な青銅器を作るために、外范分割法という、複数の鋳型を組み合わせる技術が生まれた(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※商王はシャーマンであり、獣骨や甲骨で卜占を行っていた。特に祖先神の祭祀を行うことが重視され、狩猟に関わる軍事演習、農業に関わる天気や豊作か凶作かの占いも行った(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※商の人々は耒という農具を用いて、キビ、ムギ、イネを栽培した(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前1595年 Hattiが西Asiaに侵入し、Babylōnía君主国を崩壊させた。

※Hattiはその地を支配せず撤退したことで、Babylōníaの勢力は残存した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

・紀元前1565年頃 Hattušili IがHattiの君主となった。

〔参考〕「Hattušili Iの年代記」によれば、Hattušili Iは先代Labarna Iの妃の兄弟の子息である。

※Hatti君主のキサキは権力が大きく、女系原理によって君主位が相続されたという説もある(津本英利『ヒッタイト帝国』)。

紀元前16世紀末 Hurri人国家Mi-ta-an-niが北Mesopotamiaにて勢力を拡大し、エジプトより北Syriaを獲得した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)

紀元前15世紀 Mi-ta-an-niはʾāthorを属国とした。

Caspi海北部周辺で話されていた言語(Indo-Europa祖語)は、西に伝わるEuropaの諸言語へと派生し、東に伝わるとsaṃskṛtなどのPersiaや北Indoの諸言語へと派生した(馬場紀寿『初期仏教』)。

紀元前1500年 Indo-Europa語族遊牧民のārya人が、馬、牛、羊、山羊を伴って、Hindu Kush山脈を越えて、Indus川上流の五河地域(Punjab地方)に進出した。複数の部族が、断続的に進出したものと思われる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※āryaとは、「部民族の慣習法を身につけた」「行儀作法を弁えた」という意味である。āryaは長い移動の過程で、一時的もしくは定期的な定住をしたため、大麦などの栽培も行っていた(馬場紀寿『初期仏教』)。

※ārya人は先住民と対立や交流の末に支配層となって土着したのだと考えられる(清水俊史『ブッダという男』)。

※ārya人はvarṇa制(varṇaとは色を意味する)という社会システムを形成した。varṇa制下においては人々はbrāhmaṇa(司祭)を頂点としてKṣatriya(王侯・戦士)、vaiśya(商人)、Śūdra(隷属民)として身分が分けられた。そしてその枠の外に「不可触民」が位置づけられた。āryaと呼ばれたのはvaiśyaまでである。Śūdraはārya侵入以前の先住民であろう(馬場紀寿『初期仏教』)。