個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前800~700年頃

・紀元前8世紀頃 Graecia人はEgé海周辺に都市国家「polis」の建設を開始した。

※polisは25~100平方km程度、人口3000人程度の規模が標準的であり、市街地とその周りに農地が置かれる構造をしていた。それは農民を主体とする都市だったことに起因する。polisは当初、神々の子孫を自称する貴族の家柄Eupatridai(「善き父祖を持つ人々」の意)のみが参政権を持つ政体として誕生した(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。

・紀元前786年(周暦宣王42) 周の宣王,姫静は長父を楊の地に封じた。(91四十二年逨鼎『近出殷周金文集録二編』328~329)

※諸侯の封建が多く行われた、初期の周のあり方を意識していたと考えられる。静は父王と同じように、かつての栄えていた時期の周への回帰を望んでいたと考えられる(佐藤信弥『周』)。

・紀元前776年 〔参考〕第1回Olympia祭が開催されたとされる。

※紀元前776年という年は、慣習的に第1回競技会が開催された年として言及されていた。実際の年代は不明であるが、Olympiaにおいて素焼きの陶器で作られた小像の奉納数が増加することから、紀元前8世紀であると考えられる。Olympiaの領域は各有力polisから離れていたため、各polisから集った人々が奉納の競い合いをすることが可能であったと考えられる。聖域は競い合う場であり、その発展の過程で、Olympiaで行われる体育競技も発展したと考えられる(Robin Osborn『ギリシアの古代』)。

・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、寵愛する褒姒との間に儲けた伯盤を太子とした。伯盤の異母兄,宜𦥑は太子を廃され、申に亡命した。(『繋年』)

※『春秋正義』の引用する『竹書紀年』には、父王の生前から宜𦥑は王として、申侯、魯侯、許の文公,姜興父によって擁立されたと述べている。ただ、「是に先んじて」という文言は、引用の際に注釈家が独自に書き加えた可能性も指摘される(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、弟である鄭の桓公,姫友を司徒とした。(『史記』鄭世家)

※鄭の君主は、卿士を世襲することとなる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前771年 周の幽王,宮涅は兵を率いて申を包囲するが、諸侯の繒と西戎によって攻められた。宮涅と伯盤は殺害された。(『繋年』) 鄭の桓公,姫友は戦死し、子息の掘突が跡を継いだ(武公)。(『史記』鄭世家)

・紀元前770年 周の大貴族,虢公翰は、故幽王,姫宮涅の弟である余臣を周王として擁立した(携王)。(『繋年』)

〔異伝〕『竹書紀年』では、姫宜臼は諸侯の申、魯、許に擁立されて王を称しており、並立していたとする。

※周は既得権益が蓄積されたことで、大貴族や諸侯の権力が増大した。各々の勢力が周王を擁立したことで内乱が勃発したのである(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前753年 〔参考〕伝承によれば、RomulusはPalatinusの丘に国Romaを建ててRex(君主)となったという。(Dionysius 『Rōmaikē archaiologia』)

※建国伝承を書き残したDionysius、Plutarchus、Titus Liviusなども、その物語に関しては疑いの言葉を述べている。古い時代からの伝承であるため、建国年を含め正確な内容が判然としないのである。ただ、紀元前8世紀頃にTiberis河左岸の丘の上に集落があったことが調査の結果判明している。そのため、後のRoma市の場所に都市が建設されたことは確かであると考えられる(宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』)。

※伝承においてはRomaとはRomulusの名に由来するが、実際はEtrusci語で川を意味する「rumon」が由来であるとも考えられる(小林標ラテン語の世界』)。

※Latin語で君主を意味するRexは、Saṃskṛtamで同じく君主を意味するRajaと同根である(小林標ラテン語の世界』)。

・紀元前750年(周暦携王21) 周の携王,姫余臣は、姫宜臼に味方した晋の文候,姫仇に殺害された。(『繋年』)

※以前は『竹書紀年』によって余臣の殺害は760年と考えられていたが、『繋年』の発見により750年であると判明した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前750年頃 Graecia人はEgé海域の外に航海を開始した。

※紀元前850~750年頃、地中海全域の気候は高温乾燥から冷涼湿潤へと変化した。そうした気候変化は地中海沿岸地域における夏期腸疾患の死亡率を低下させ、また降水量を安定させて農業生産が増えたことで、人口を増加させたとも考えられる。人口増加によって土地と食糧が足りなくなり、Graecia人たちはEgé海域から地中海と黒海全域まで拡散することとなった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアギリシア』)。

※住んでいる土地の貧しさから新天地を求める必要があったほかに、同じ時期に成立した『Ilias』や『Odysseia』に見られるような冒険心や英雄精神に起因する行動とも考えられる。 Egé海域で習熟した造船・航海技術によってなせる業であった。Graecua人は既にPhoiníkē人たちが進出したAfrica沿岸からIbérica半島にかけての地域を奪うようなことはせず、Europa側と黒海へと向かった。地中海域は北のPhoiníkē人と南のGraecia人によって勢力圏が二分されることとなった(手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』)。

※Graeciaで作られた阿利襪油と葡萄酒は、高価なものとして交易に用いることが可能であったため、Graecia人にとってはAfricaおよび西Asiaとの交渉の道具でもあった(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。

※Graeciaの都市における農地は、秋に種まきを行って麦を初夏に収穫した場合、1年以上は農地を休ませる必要があり、毎年の収穫を可能にするには、土地の半分ずつを交互に利用するほかなかった。Athēnaiのような都市は穀物の自給自足が不可能であるため、黒海周辺やAigyptosから輸入をしていた(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。

※Graecia人はAššurから圧迫されて地中海に進出したPhoiníkē人の商人と競合し、経済的・文化的な交流を持つようになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアギリシア』)。

線文字BによるGraecia語の表記は不便であったため廃れ、Phoiníkē人の文字体系を用いて表記するようになった。ただ、Graecia語の文字表現には母音を表す必要があるものの、Phoiníkē文字には母音を表す文字がないという問題があった。そこで、Phoiníkē文字にはあるがGraecia語には不必要な発音をする文字を、母音として用いることとなった。こうして母音と子音を個別に表記するAlphabetが成立した(小林標ラテン語の世界』)。

・紀元前744年 Tukultī-apil-Ešarra(Tiglath Pileser) ⅢがAššurの君主として即位した。

・紀元前740年 姫宜臼が周王として擁立された(平王)。(『繋年』)

※『繋年』には叔父の携王,姫余臣の崩御から平王の即位まで9年間、周王が空位であったと述べている。かつて幽王,宮涅によって後継者から外され、さらに余臣を殺害した晋の文侯,仇に支持されていた宣臼は、周王として即位することに抵抗感を持たれていたからとも考えられる(佐藤信弥『周』)。 

・紀元前738年(周暦平王3) 周の平王,姫宜臼は遷都した。(『繋年』)

※宜臼は本来は太子であったが、追放された後に即位しているため庶子となる。そのため、幽王,宮涅が滅ぼされたことで本家としての周王家は滅亡し、洛邑にて分家が王権を維持したことになる。平王以前の周は「西周」、以降は「東周」と呼ばれて区別される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※『繋年』は成周に遷都したとあるが、実際は成周の中心部から少し離れた位置に遷都したと考えられる。成周の中心からも離れたことで、王の所在地を示す必要が生じ、宮殿の位置を示す「王城」という言葉が生まれ、やがて地名になったと推測される(佐藤信弥『周』)。

※周の遷都が行われて以降の時代は、歴史書『春秋』に因んで「春秋時代」と呼ばれる(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

西周が滅亡して諸侯の力が強まると、地方では特色のある金文が刻まれるようになった。呉や越などで使用された「鳥書」という字体は装飾性が強かった(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

※これにより豊と鎬の一帯は「中国」ではなくなった。その後周王は権威を低下させる(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・紀元前738年頃? 周の平王,姫宜臼は、遷都するまで自身を護衛をした功績により、嬴非子の子孫, 秦の襄公に、陝西省の岐より西の土地を与えた。(『史記』秦本紀)

※秦が与えられた陝西省黄河文明の発祥地であり、周の興った土地であった。ただ、嬴一族は辺境の出身であり、他の諸侯からは野蛮視された(渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想』)。

・紀元前735年以前頃 AššurはBiainli(Urartu)を制圧した。

※君主のTukultī-apil-EšarraはSyria・Palestina地方の覇権を、Aigyptosと境を接する領域にまで回復することに成功した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前732年 AššurはDamascusを属州とした。

※Tukultī-apil-Ešarraの時代にAššurは再び勢力を拡大させ、Byblos、Tyros、Samariaの他にもArabia半島とSinái半島に住むArab人部族からも貢納を受けることになった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前722年 Aššurは北Yisrā'el君主国を滅ぼした。

※Assyriaの支配下では、北Yisrā'el遺民のIḇr人は反抗しなければ生き残ることとなった。敗戦によって自身の信仰する神が頼りにならないと考えるのうになったIḇr人はYHVH信仰を捨てることになった。また、南Yəhūdā君主国でもYHVHを見捨てる人々もいたと思われる。しかしそれでもYHVH信仰を捨てなかった人々は南Yəhūdā君主国におり、YHVH信仰を保った人々が北Yisrā'elから南Yəhūdā君主国に移住することもあったと思われる。そのため、南Yəhūdā君主国ではYHVHを強く信仰する人々が多くなったと考えられる。そのような信仰の強い人々は、「YHVHは国を見捨てた不出来な神である」という結論を否定しようとしたため、「 人間の側に落ち度、罪がある」という考えが生まれたとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。

・紀元前721年頃 Šarru-kīn ⅡがAššurの君主として即位した。

※自ら作成させた碑文が父親に言及されていないことから君主位簒奪者であったとも考えられ、新たな都,Dur-Sharrukin(Šarru-kīnの砦の意)を建設していることも簒奪に伴い既存の伝統を否定する行為とも推測される。一方、正式な継承者になる予定ではなかったものの先代,Shalmaneser Vの兄弟ではあった可能性も指摘される(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前721年頃 Marduk-apla-iddina IIがBabilの君主となった。

Marduk-apla-iddina IIはChald人部族長であり、Elamの支援を受けてBabilの権力を握ったことで、君主となりえたのである(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前720年 周の平王,姫宜臼は、鄭の武公,姫掘突・荘公,寤生父子を卿士とした。(『春秋左氏伝』)

※『春秋左氏伝』には周王が虢を重用したため鄭伯は王を怨んだとある。周王は父子2代が卿士になった鄭を警戒し、虢を重用したものと思われる(佐藤信弥『周』)。

・紀元前720年 周の平王,姫宜臼が崩御すると、孫の林が即位した(桓王)。

※林は鄭から権力を奪取することを望んだ(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前717年 Aššurの君主,Šarru-kīn Ⅱは Karkamišを滅ぼした。

・紀元前714年 GimirayaがBiainli(Urarutu)を破ったとの情報がAššurにもたらされた。

・紀元前8世紀後半 Hómērosの叙事詩が成立した。

※『Ilias』第2歌には、Thersītēsという人物が遠征の中止を主張したところIthákēの君主,Odysseusに笏杖で叩かれる場面がある。詩中において笏杖(発言権の象徴)を持たない市民でありながら貴人に抗弁したThersītēsは、他の市民から嘲笑されており、 またその姿形は醜悪なものとして描かれることから、叙事詩の利き手であった貴族層の価値観が読み取れる(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。

・紀元前709年頃 AššurはBabilを征服した。

※Babilの支配を回復したものの、Babilの君主であったMarduk-apla-iddina IIには逃亡されることとなった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前709年頃 Mita(希:Midās)はAššurと和平を結んだ。

※それまではAššurとの抗争を続けていたが、当時Anatoriaに侵入してきたCimmeria人への対応のために和睦したと考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前707年頃 ShabakoはKushの君主に即位した。

・?年 Kushは首都をWasetに遷した。

※国際的に重要な土地に遷ることになり、また、AigyptosとYehuda君主国の支配権を巡ってʾāthorと対立することとなった(山口昌男『アフリカ史』)。

・紀元前705年 Aššurの君主,Šarru-kīn Ⅱは、Gimirayaと戦争中に死亡したという。

・紀元前704年 Sîn-ahhī-erība(Šarru-kīn Ⅱの子息)がAššurの君主として即位した。

※Sîn-ahhī-erībaは「Sîn神が兄弟たちの代わりに与えてくれた」という意味であるため、後継者になりえる人物が少なくとも2人おり、それらの人々の薨去によって彼が即位したことを示すと考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前8世紀末 〔参考〕Massagetai人に悩まされていた、東方Asiaの奥地のSkythai人が、Rā(Wolga)川を越えて黒海の北岸を占領した。先住民のCimmeria人は追い出され、Sinṓpēに移住したのたのだという。(Hēródotos『歴史』)

・紀元前704年 周の桓王,姫林は鄭を攻めたが敗北し、林は負傷した。

※鄭の荘公,姫寤生は諸侯として自立し、周の直轄地を獲得した。その後、周は伝統的権威のみを維持し、政治的権限を回復することができなくなった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前704年 楚の君主,羋/熊徹は、周の桓王,姫林に昇爵を要求したが拒否されたので、王号を自称した(武王)。(『史記』楚世家)

※王号の使用は、周王と同格であることを主張するものであり、周王を尊重する諸侯からは蔑まれた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※周を中心とする「諸夏(華夏)」は、楚のような「夷狄」と対置されることで同類意識を強めた。「諸夏」が見下す「夷狄」は、民族的ではなく言語と習俗によって区別された(檀上寛『天下と天朝の中国史』)。

※『史記』-楚世家には、楚の鬻熊は周の文王,姫昌の師だったとされており、斉の君主の祖先が昌の師,太公望,呂尚であったという伝承を参考にして、由緒を創作したと考えられる。一方『楚居』には、楚の君主の祖先である季連が殷(商)王,盤庚の娘婿であると述べられている。楚王の祖先伝承はどちらが先に成立したかは不明であるが、周との関係が良好な時代には周王の師が祖先であるという伝承が語られ、周との関係が悪化すると殷(商)との関係を主張する伝承がかたられたとも推測される(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。

・紀元前8世紀末 Lakedaimōn(Spártā)はMesseniaを征服した

※Lakedaimōn人は征服した地の人々をHeilotaiという農奴身分として支配した(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。

・紀元前8世紀末 〔参考〕Skythai人はKimmeria人を追って南下し、Mēdía(Īrān高原)に侵入してその場所を28年支配したという。(Hēródotos『歴史』)

・紀元前702年 斉と魯が交戦した。(『春秋』)

・紀元前701年 新AššurはAigyptosと結んで反乱を計画したYəhūdā君主国を攻めた。

※新Aššurの君主,Sennacheribが刻ませた浮彫彫刻からは、投石や弓矢といった飛び道具による城攻めが行われていたことが理解できる(小林登志子『文明の誕生』)。

・紀元前701年 春 斉・衛・鄭・宋が会盟を行った。(『春秋左氏伝』)

春秋時代以降、有力な諸侯同士は同盟を結ぶようになった(佐藤信弥『周』)。

・紀元前700年頃 Arya系遊牧集団が、Zagros山中のPârsâを根拠地とした。

※Graecia語のPersia、およびそれに由来する「Īrān」に対する他称は、Pârsâに由来する(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。