個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1100年~1000年頃

・?年 癸巳 商王,武乙は、祖甲に対して羊と豚を犠牲として捧げるべきかを占った。(『甲骨文合集』27336)

※「祖」は二世代以上前の男性に対して用いられる呼称であるため、祭祀を行った商王は、祖甲の孫である武乙であると考えられる(落合淳思『殷』)。

※康丁と武乙の時代の甲骨文字は戦争に関する記録が多く、羌との戦闘において商王が味方の戦死を危惧している形跡があることから(『甲骨文合集』27990)、羌が敵対勢力として強大化したと考えられる。『史記』-殷本紀では、武乙は「天」を侮辱する王として語られるが、当時の「天」は主神ではなく自然神の一種であることから、支配体制の動揺から形成された伝承ではあっても、内容自体は創作である(落合淳思『殷』)。

・紀元前1078年頃? 武乙の王子,文武丁(太丁)が商王に即位した。(『史記』殷本紀)

※文武丁の時代には狩猟の日程が増やされている。その際の狩猟では獲物に関する記述がほとんどないため、軍事訓練に特価したものであったと考えられる。軍事訓練を通して、王都近くの都市の支配を強固にすることを企図したと考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1075年頃?(商暦太丁4) 〔参考〕商王,文武丁は、周の君主,季歴を牧師に任じたという。(『竹書紀年』)

※『詩経』-大雅・大明には、季歴の妻,大任が商の出身であったと述べていることから、周は商王に女性を嫁がせるだけでなく、商から女性を妻として迎え入れたこともあったと推測される(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1068年頃?(商暦文武丁10) 11. 癸卯 商王,文武丁は人方に遠征を行った。(『英国所蔵甲骨集』2524)

※人方への遠征は、文武丁の在位10年目のことである(落合淳思『殷代史研究』)。

※人方に対する勝利を讃える金文があることから、遠征は成功したものと考えられる。また、文武丁は周祭のような祭祀を頻繁に行うことで権威を高めるなどして、支配体制の動揺に対象しようとしたのである(落合淳思『殷』)。

・紀元前1067年頃?(商暦文武丁11) 〔参考〕商王,文武丁は周の君主,季歴を殺害したという。(『竹書紀年』)

※周の君主は商から重用されながらも、警戒されていたと考えられる(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1067年頃?(商暦文武丁11?) 〔参考〕周の君主,季歴が薨去すると、子息,昌が後を継いだという。(『史記』周本紀)

※『史記』-周本紀に、昌が商から「西伯」に任じられていたとあるのは、周の君主が「周方伯」と呼ばれていたこと(『周原甲骨文』H11:82,H11:84)を反映していると考えられる(佐藤信弥『周』)。

〔参考〕『史記』-周本紀には、昌は諸侯から紛争調停を依頼られるようになったとあり、その頃から「王」を称すようになったとある(文王)。

・紀元前1062年頃?(商暦文武丁16) 商王,文武丁は崩御した。(『史記』殷本紀)

※文武丁の在位年数は16年であったと考えられる(落合淳思『殷代史研究』)。

・紀元前1062年頃? 受が商王に即位した(帝辛,紂王)。(『史記』殷本紀)

※『史記』の系譜では太丁(文武丁)の後に帝乙が即位したとあるが、甲骨文字には祭祀の記録が見られないため、帝乙は実在しない人物であると考えられる(落合淳思『殷』)。

※『史記』-殷本紀は「辛」を実名と解釈しているが、十干による呼称は没後の諡号である(落合淳思『殷代史研究』)。

※「紂」と「受」は音が似ていることから、「受」が実名であったとも考えられる(佐藤信弥『周』)。

※『史記』-殷本紀には紂王が鬼神を疎かにして、暴政を行ったと記されている。しかし、その時代の甲骨文からは、受が王であった時代には祖先祭祀が頻繁に行われていたことが判明しており、実態とは異なると考えられる。また、重税を課してして鹿台を銭を満たしたという逸話も、金属製貨幣は当時は普及していないため不自然なものである。受が王の時代の甲骨文字には軍事訓練としての狩猟も多く行われていたことが記されており、政治的な行動を重んじていたことが理解できる(落合淳思『殷代史研究』)。

・紀元前1055年? 丁卯 商の紂王,受は、孟方の首長,炎を討つに際して、勝てるか占った。(『甲骨文合集』36511)

※孟の反乱が行ったのは紂王即位7年目のことであったと考えられる。孟の地は、かつて商王が頻繁に狩猟に訪れた地であり、王の直轄地であり支持勢力のいた場所であったと考えられる。孟の反乱鎮圧には成功したものの(『甲骨文合集』36509)、それまで増加傾向にあった周祭の記録や王から他者への贈与を示す記録が減少しており、商王は権力を減退させたと考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1052年頃? 〔参考〕周の文王,昌は、崇国の侯,虎を滅ぼし、その跡地に豊を建てて移住したという。(『史記』周本紀)

・紀元前1051年頃? 周の文王,昌は、豊に拠を移した1年後に崩御し、子息,発が後を継いだ(武王)。(『史記』周本紀)

※「93利簋」の銘文の冒頭には「武王」を組み合わせた「珷」という文字がある。そのため発の王号である「武王」は、生前からの称号だという説もある(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1050年頃 Ege海を渡ってAnatoria沿岸に移住する人々が増加した。

※Ionia地域にはMiletos、Ephesos、Colophōnといった居住地が形成された。新たな政治構造を求めていたのだと考えられる(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアギリシア』)。

・紀元前1046年 ?.甲子 周王,姫発は殷軍と交戦して勝利し、晩には殷の都商を占領した。(93利簋) 〔参考〕殷の紂王,受(帝丁)は70万人の軍勢を動員したが戦意がなく受に逆らった。受は財宝を貯めた鹿台に登り、焼身自殺したという。(『史記』周本紀)

※受の在位期間には、16年間周祭が行われたと考えられる(落合淳思『殷』)。

※殷の滅亡は、紀元前1030年とする見解もある(吉本道雅「西周紀年考」)。

※『尚書』-牧誓と『史記』-周本紀にある、甲子の日の未明に戦闘が行われたという言及は、「93利簋」の銘文と一致する。『国語』-周語下には、周が殷を滅ぼしたとき、木星が鶉火の方位にあったとある。「93利簋」の銘文に「歳鼎」とあることと『国語』の記述を関連付けて、商が滅んだ年を紀元前1064年とする説もあるが、『国語』内の逸話の信憑性に問題があることや、銘文が他の解釈もできることから、疑問も呈されている(佐藤信弥『周』)。

※殷は地方勢力の独立性が強かったため、動員可能な軍勢は王都周辺や利益を共にする地方勢力からのみであった。甲骨文などからは徴兵された人数は3000~5000程度であり、70万人の動員は事実でないと考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「13何尊」の銘文には武王が「大邑商」に勝ったとあり、首都である「大邑商」を攻撃目標に定め、商の軍が揃う前に陥落させたとも考えられる(佐藤信弥『周』)。

※「何尊」という銘文が刻まれた青銅器からは、武王,姫発の時代には「中国」という言葉が既に存在していたことが理解できる(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・?年 周の武王,姫発は、殷の故地に「三監」を設けた。(『繋年』)

〔参考〕『史記』「周本紀」によれば、発は弟の管叔と蔡叔父に殷の紂王,受の子息である武庚禄父を補佐させたという。

※「三監」とはその3人とされ、武庚禄父ではなく発の弟,霍叔とされることもあった。しかし、『繫年』には「三監」が誰であるか記述はない(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1043年? 周の武王,発は崩御した。(『史記』周本紀,夏商周断代工程)

※『春秋左氏伝』-僖公24年条には応国の君主は発の子孫とあり、「05応国鼎」(『近出殷周金文集録二編』292)には応国の君主の諡号を「珷帝日丁」とする。『春秋左氏伝』を信じるならば、発は商王と同様に、十干に基づく諡を贈られたとも考えられる(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1042年 武王,姫発の崩御後、王子,誦が即位した(成王)。新王を叔父,旦(周公旦)が補佐した。(『史記』周本紀,夏商周断代工程)

※周では王位は父から子へと長子によって受け継がれるものとなった。宗廟においては、父系直系祖先を祀ることになる(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前1042年? 股の旧都である商邑にて反乱が起こり、その勢力が「三監」を殺害して彔子聖(耿)を擁立した。(『繋年』) 成王,姫誦は召公,奭に討伐を命じて自らも出征した。(77大保簋) 周公,旦も征伐に参加し(25卿盤)、商邑を討伐して子耿を殺害した。(『繋年』)

〔異伝〕「史記』「周本紀」は、三監が、周公,旦が国政を主導することに不満を覚えて反乱を起こし、旦によって鎮圧されたとする。

※彔子聖は自作の青銅器(08王子聖觚)に「王子聖」と刻んでいる。つまり彼は殷の王子、『史記』における武庚禄父であり、殷(商)の遺民が主体となった反乱であったと考えられる。周は反乱を鎮圧し、殷の都邑を支配下に収めた(佐藤信弥『周』)。

※誦は幼少で即位したとされるが、「77大保簋」の金文には自ら出征していることが語られていることから、若年ではあったとしても幼少ではなかったと考えられる(佐藤信弥『周』)。

 ※それまでの「中国」とは周王のいる「豊」と「鎬」および周辺地域であったが、後に殷の旧都「商」の一帯もそれに加えられた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・紀元前1042年頃? 〔参考〕殷の紂王,受の庶兄,啓は、旧殷王家の後継者として宋を与えられたという(微子)。(『史記』宋微子世家,夏商周断代工程)

※宋微子世家は、啓の跡を継いだ弟を微仲衍、仲衍の跡を継いだ子息を宋公,稽と記す。その号から、稽より以前は微の地域を治めていたと推測される(佐藤信弥『周』)。

※「微」という文字は殷(商)代の甲骨文字にも見られ、殷(商)の支配下の地域や領主に対して用いられたものである。そのため、本来は微子,啓は殷(商)の支配下であり、周による殷(商)の打倒に協力したことで、周から殷の末裔としての地位を認められたとも考えられる。彔子聖の反乱から、殷(商)王の子孫の権益を認めることの危険性を覚えた周は、自信にかつて味方した啓を「殷の末裔」として扱うことで、実際の殷(商)王の子孫に権限が渡らないようにしたとも考えられる。啓の諡号の「微」が甲骨文字に見られる殷(商)王の祖先,「上甲」の名として『史記』-殷本紀と『国語』-魯語上篇に伝えられているのは、宋公が殷(商)王の系譜に繋げられたことに由来するとも考えられる。また、殷(商)の遺民を懐柔するに際して、全ての殷(商)王を悪人だと言うことは出来ないため、文武丁の後に即位した「正統な王」として帝乙を創作したとも考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1042年? 周の成王,姫誦は康侯に衛の地を治めさせた。(『殷周金文集成』4059)

※『史記』-衛康叔世家に記載のある、誦の叔父である康叔,封と同一人物である。『史記』と『繋年』には、封は殷(商)の遺民を与えられた後、衛の地に移されたとある(佐藤信弥『周』)。

※殷の旧領よりも更に領土を広げるに際して、周王は王族や夨のような功臣に土地や人民を分け与えた。これを「封建」という(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「封」とは本来、草木を植えることで自身の土地の領域を示すことを意味した。周王が封建を行うか臣下に職務を与える際の言葉は青銅器に刻まれるようになる(佐川英治「中国王朝の成立」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※周王の直轄範囲は「王畿内」「内服」と呼ばれ、司徒・司馬・司空という3つの官が管轄したことから、それらの官の総称と同じく「三事」とも呼ばれた(95令方彝『殷周金文集成』9901)。対して周王朝の外地は「外服」「四方」と呼ばれる。王畿内において周王の直接統治する都邑の周辺の「采邑」の土地を与えられた貴族は「邦君」と呼ばれ、外服の土地を与えられた貴族たちは「諸侯」と呼ばれた。「95令方彝」には諸侯に対して与えられる爵位の名称として「侯」「甸」「男」が見えるが、実際に見られる爵号の多くは「侯」である(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1042年? 周の成王,姫誦は、周公,姫旦の子息,伯禽を魯の公に封じた。

〔参考〕『説文解字』は「魯」を「鈍詞(発音が鈍い)」ことだと説明する。

※下部が「白」や「曰」であることから、「魯」とは言行が大まかで間抜けであるとも考えられた。しかし、甲骨文字において「魯」の下部は本来は「ꇴ」であり、祭器を表すものである。また、上部の「魚」は祭祀で供えるものであり、神に祈りを捧げることを意味する文字であるとも考えられる(落合淳思『漢字の成り立ち』)。

※魯の首都の曲阜の墓葬には商系勢力と周系勢力がどちらも存在している。そのため、『春秋左氏伝』が伝えるような、諸侯に対する商(殷)の遺民の分与は実際にあったと考えられる(落合淳思『殷代史研究』)。

・?年 周の成王,姫誦は、虞(夨)を唐に封じた。(『史記』)

※『史記』には、虞は誦の弟とある。しかし、それ以前に成立した 「晋公𥂝」には武王,発を補佐した功績により唐を建国したとある。そのため、周王との続柄は後の時代のものだと考えられる(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。

・?年 周王は克を燕の侯に封じた。(燕侯克罍・盉)

・紀元前1038年?(周暦成王5) 周の成王,姫誦は「成周(洛邑)」に遷都した。(13何尊)

〔参考〕『史記』「魯周公世家 周公旦」によれば、姫旦(周公旦)は雒邑を増築して「成周」と名付け、殷の遺民を住ませたほか、「王都」を築かせて国都以外の都とし東方への備えたという。

西周遺址などの遺跡が分布する地域が成周の中心とされる。成周と王城の2つの都城が造営されたとされるが、発掘調査によって都城が使い分けられていたという根拠が裏付けられてはいない(佐藤信弥『周』)。

※「13何尊」の銘文には、成周の一帯を「中国」と表現している。これは中国の最古の用例であり、この時点においては中央の地域を意味する言葉であり、成周周辺という狭い範囲を呼ぶ言葉であったと考えられる。中国に対応する言葉として南方を意味する「南国」と東方を意味する「南国」という言葉が金文に見られる(佐藤信弥『周』)。

※周の拠点である成周には成周八師という殷の遺民によって構成される軍隊が設置された。成周八師と対になる西六師という軍隊は、宗周の地に設置されたと考えられる(佐藤信弥『周』)。

※旦は長子相続、同姓不婚、宗廟の制度を整え、宗族間の秩序「宗法」を定めて、道徳による支配を行った人物とされる。ただ、周は初期において殷の制度を踏襲した部分が多かったと考えられる(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※周人は元来「未開」であったために、商業には不向きであったとも考えられる。このため、商の遺民が塩の分配には利用されたのであり、「商人」の手によって財は洛邑に集められ、周を繁栄させたとも考えられる(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。

※「商人」は没落した商の遺民であるとの見解は俗説であり、実際の由来は「賞」や「償」からの連想であるとも考えられる(落合淳思『殷代史研究』)。

・紀元前1038年?(周暦成王5) 4.? 周の成王,姫誦は、かつて文王,昌を補佐した功績により、同族の何に子安貝30朋を与えた。(13何尊)

※周王は、高級品である銅塊や子安貝を臣下に与える賜与儀礼によって上下関係を規定していた。この方式は土地や高級品を継続的に手に入れる必要があり、不安定であった(佐藤信弥『周』)。

※貝殻は貴重品であったため、それを表す漢字であった「貝」は、「貴」や財貨を意味する「財」「貨」や、「資」「買」「貯」といった漢字の部首に用いられることとなった(落合淳思『漢字の字形』)。

※13何尊の金文によれば、かつて武王,発は「中国」において民を治めようと述べたのだという。13何尊は「中国」の最古の用例である。この文脈における「中国」とは周一帯のことであり、狭い範囲のものであった。また、成用は周王朝の唯一の拠点だったわけではない。成周、またの名を新品は、河南・山東方面を攻略するための拠点として、殿の遺民を中心とする成周八師(八師)という軍隊が置かれた。成周八師と対になる西六師は、宗周に置かれたと推測される(佐藤信弥『周』)。

※「尚書』「詩経」においては、「中国」と似た意味を持つ語として「中夏」と「華夏」が見られる。ただ、「中国」が中心的国色を意味するのに対し、「中夏」と「華夏」は周の政治や文化の中心地、ないしはその影響が及んでいる空間を意味する(冨谷至『中華世界の盛衰』)。

※13何尊には「文王受茲大命」とあり、周代より「天」の崇拝が始まったことが理解できる。周王による支配は天からの命令によるものとして正当化された。「革命(命を革める)」とは、天命が移動したことによる王朝交代を指す。周王は後に「天子」とも呼ばれることとなった(吉本道雅,冨谷至ほか編『概説 中国史』「先秦」)。

※周王は「天子」と称し、「天下」を治め諸侯を従える存在であった。周においては、「文明的な」天子を中心として、そこから場所が離れる程に「野蛮な」者の空間になってゆくという序列化された世界観があった。つまり、天子は1人でなくてはならない(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※それまでの「中国」での信仰は人格化されていなかった帝を対象ときていたが、遊牧民の拝天信仰が伝播したことにより「天子」という概念が誕生したとも考えられる(楊海英『逆転の大中国史』)。

※「大盂鼎」からは、文王が天命を受け、武王が「四方を敷有」したとあり、2代に渡って功業がなされ、東西南北に広く領土を持ったという歴史認識が見て取れる(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。

※周の東西南北の異民族は、それぞれ「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と呼ばれた。『説文解字』によれば、蛮は虫、狄は犬、貉は豸、羌は羊の字根を持つ。このように、「中国」にとっての異民族をあらわす字根は動物の場合が多い。しかし、「夷」という字には人間を意味する「大 」が含まれており、異民族の中ではすぐれた者とみなされていた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※周人は、周王の権威を認めず、言語が通じず、文字を知らず、風俗習慣などが異なる者たちを異民族と見なした。特に城郭都市生活を行わないことや、婚姻制度の異なることなどが、特に異民族視される風俗習慣の違いであったと考えられる(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。

・紀元前1021年? 周の成王,姫誦は崩御した。(夏商周断代工程)

・紀元前1020年? 周の成王,姫誦の崩御後、王子の釗が即位した(康王)。(『史記』周本紀,夏商周断代工程)

※釗は、殷は側近や地方領主がが酒に溺れたために「天命」を失って滅んだと語っている(76大盂鼎『殷周金文集成』2837)。主神「天」の命令によって王朝が交替するという天命思想であり、殷を悪であるとして支配を正当化した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「未開」であった周民族は酒を「狂水」と見なし、それを神を祭ることに使うのは神の冒涜だと考えたことで、商の滅亡の原因は酒に溺れ鬼神を蔑ろにしたと語られるようになったという見解もある(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。

※夏の最後の王,桀が暴君であったという逸話は、殷(商)の紂王が暴君であったという逸話と酷似しているため、紂王説話を模倣して作られた伝説であると考えられる。「夏」にしろ「殷」にしろ、それらの名称は周による命名であり、それ以前は王朝に名前を付けるという観念は存在しなかったと考えられる(落合淳思『殷』)。

※「76大盂鼎」は周の文王が天命を受けて武王が未開の地を開いて「四方」を領有したと語る。康王の時代には文王・武王の事績が2代に渡る興行として、定型的な伝承になっていたと考えられる(佐藤信弥『周』)。

・?年 4.丁未 周の康王,姫釗は東方の版図を視察し、宜の地に遊行した。釗は虔候,夨を宜の候に任じ、匂い酒、柄杓、弓矢などを与えた。(18宜侯夨簋『殷周金文集成』4320)

※銘文には集落や川筋に関しても記されており、中央から離れた土地も把握していたことが理解できる。銘文にある「在宜王人」とは周に服属した現地の土豪であり、「宜庶人」とは土豪に従う現地の庶民と考えられる(佐藤信弥『周』)。

※夨に与えられた匂い酒は、地に撒いて神の降臨を促すものであり、柄杓はそれを酌むものである。その2つは祭祀権の象徴である。それに対して弓矢は軍事権の象徴である(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。

※「酒」という字は、「酉」という壺に水を入れて神前に供えたことを意味したと考えられ、当初はalcoholの意味を含んでいなかったと思われる。alcoholを含む酒は貴重な穀物を利用して製造するため贅沢品であり、富貴な君主でもなくては簡単に飲めるものではなかった(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。

※「鬱」という字は、香草を浸した匂い酒を表す形「 鬯」と、それを入れる器を表す「缶」、湯気の形の「彡」とこんもりと生える様子から気分のこもった様子を表す「木」2つを組み合わせたものであるとも考えられる。気分を落ち着ける酒であることから、気分が落ち込んだ様子を「鬱」と言うようになったとされる(落合淳思『甲骨文字に歴史を読む』)。

※周王は支配可能な領域が限られているため、諸侯の自治を認め、独自に法の制定や徴税を行うことを容認した。その代わりに諸侯には、一定の財を周中央に治め、外敵がいればそれに対処することが求められた。ただ諸侯が周王から離れた場所で勢力を拡大することは好ましくないため、諸侯には周王の娘が嫁いで、周王を家長とする宗族関係を形成することとなった。「お姫様」という言葉は、「姫」を姓とする周王族の女性が、豪華な衣装で諸侯に嫁いだことに由来する。諸侯もまた各々の国で自身を家長とする宗族関係が形成されるようになった(渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想』)。

※「戦国時代」以降の文献には、諸侯は周王に対して貢納を行い、軍役に服したとあり、周王と同じく姫姓を持つ諸侯は分家として、本家である周王と「宗法」という秩序のもとに繋がっていたとある。しかし、金文によって裏付けられるものではない(吉本道雅『概説 中国史』「先秦」)。

・紀元前1034年? 周の康王,姫釗は崩御した。

・紀元前1014年?(周暦昭王1)  姫瑕が周王となった(昭王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

・紀元前11世紀 Aram人の定住地はGalzu(Kaššu)なき後のBabylōníaまで拡大した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

・紀元前1000年前後 騎馬民族が登場した。

※初期に現れたIndo-Europa語系のKimmeria人は、北Mesopotamiaにてそこに定住する人々の脅威となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※TürkとMonγolの遊牧民は、羊・山羊・牛・馬・駱駝を家畜と見なしており、犬・猫・豚といった搾乳の対象とならない動物を含まない。そのため、遊牧の確立は乳製品の製法が確立した段階であると考えられる(楊海英『逆転の大中国史』)。

※紀元前1000年頃以降には、馬の頬の両側を挟む銜留め具が作られるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

紀元前1000年頃 Arya人はGaṅgā川流域のドアーブ地方に進出した。

※すでにそこでは先住民が農耕を行っていたが、Arya人は深い森を開拓して農耕社会を形成した(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Arya人は、varṇa制(varṇaは色の意)という社会構造を形成した。varṇa制下においてはbrāhmaṇa(司祭)を頂点とし、Kṣatriya(王侯・戦士)、vaiśya(商人)、Śūdra(隷属民)と身分が分けられ、その枠の外部に不可触民が位置づけられた。Aryaと呼ばれたのはvaiśyaまでであり、ŚūdraはArya人に征服された者たちであると考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Indo社会の民法は、varṇa制に起因する差別が担い、法として規定されたのは、上位身分の権限のみであったとも考えられる。そのためIndoの生活における社会のつながりは憤激や恣意であり、進歩と発展の目的を持たなかったとも分析される(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕序論)。

Indo川上流域からGaṅgā川流域に進出するまでに、 Arya人は聖典『Veda』を編纂した。 Arya人は当時文字を持っておらず、『Veda』は彼らの話すSaṃskṛtで口頭で伝えられていった。『ゔぇだ』に用いられる言葉は、Saṃskṛtの中でも最古の語形・語法を保存しているため、「Veda語」と呼んで区別することもある(馬場紀寿『初期仏教』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

ブラーフマナの祭式において、究極的に願われるのは、死後天界に再生すること(生天)である。ただ、天界においても祭式の効力が切れれば死ぬと考えられた。その解決策として「upaniṣad」は、 Ātman(我=自己)が個人の属性を捨ててBrahman(梵=宇宙原理)と合一すること(梵我一如)を教える。こうすることで、天界において不死になるのだという(馬場紀寿『初期仏教』)。

※当初、Veda聖典は「生天」が宗教的な目的であったが、再び死んで地上に戻ってくるのではないかという不安があった。そのため梵我一如による「天における不死」すなわち解脱が究極目標とされることになった。このころのインドでは「カルマ(業)」の理論が生まれ、生前の行為の善悪によって来世が決定するという考えが広まった。すると、祭祀に頼らずとも善行による天界への再生は可能となり、ブラーフマナ教の権威に陰りが見え始めた(清水俊史『ブッダという男』)。

※Brāhmaṇaの行う祭式には、日の出と日の入りに行う「アグニホトーラ」、月ごとに行う「新月祭」と「満月祭」、春と雨季と秋のはじめに行う「四ヶ月祭」、春のオオムギ、秋のイネの収穫祭、年ごとの「ソーマ祭」があった。アーリア人は農耕社会における月や季節の循環を、祭式によって共同体で共有した。『Veda』においては、祭式を行うことで時間が巡るのだと考えられた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前1000年頃 鉄器時代となったItalia半島には、Italikiと呼ばれたIndo-Europa語系の人々が移住していた。

※Italikiは、半島中西部丘陵地帯に住むファリクス・ラテン方言郡の人々と、半島東南部山岳地帯に住むオクス・ウンブロ方言郡の人々に分けられる。ラティウム地方に住んだRoma人はファリクス・ラテン方言郡に属する。Italikiより先に半島に居住していた、Etrulia人などの地中海人種は母権的社会を形成していた。それに対してItalikiは家父長制的社会であり祖先崇拝が盛んであった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Etruliaの用いたEtrulia文字はGraecia文字を参考にして作られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前1000年頃〔参考〕Syria南部Kənā‘anで活動していたIḇrîm人は、『SēferMəlāḵīm(列王記)』によれば Yerushaláyimを都としたIsraelを築き、君主Dāwīḏの下で繁栄したとされる。

※Iḇrîmの用いたIḇrîm文字は、 Phoiníkē文字を起源とする(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

※Israelは北方に領土を拡大してAram人の隊商交易を掌握した。また、P'lisht人(海の民の一部)を排除して地中海に進出した。また、南方では紅海の交易も開始した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前1000年頃 Egé海の四周にIndo-Europa語族の人々が居住する区域が形成された。

※彼らは小さな共同体を形成した。こうしてGraecia人が誕生した(手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』)。

・紀元前1000年前後 San José Mogoteに日干し煉瓦と石材による公共建造物が築かれた。

※亜米利加豹や鷲の石彫が置かれており、周囲の家屋には磁鉄鉱製の鏡があった。また、魚の骨、鱏の尾棘、Mexico湾岸地方の土器なども発見されており、Mexico湾岸地方との交流が盛んであったことが窺える。指導者層は他地域からしか手に入らないものを独占的に入手し、それを住民に分配することで、権威を高めていたと考えられる(大貫良夫ほか『人類の起源と古代オリエント』)。