個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1100年~1000年頃

・紀元前1046年? 甲子の日、周王,発は殷軍と交戦して勝利し、晩には殷の都商を占領した。(利簋銘文) 〔参考〕殷の紂王,受(帝丁)は70万人の軍勢を動員したが戦意がなく受に逆らった。受は財宝を貯めた鹿台に登り、焼身自殺したという。(『史記』周本紀)

〔参考〕『国語』「周語下」には、周が殷を滅ぼしたとき、木星が鶉火の方位にあったとある。

※利簋の銘文に「歳鼎」とあることと『国語』の記述を関連付けて、殷が滅んだ年を紀元前1064年とする説もあるが、『国語』内の逸話の信憑性に問題があることや、銘文が他の解釈もできることから、疑問も呈されている(佐藤信弥『周』)。

※「紂」と「受」は音が似ていることから、「受」が実名であったとも考えられる(佐藤信弥『周』)。

※殷の滅亡は、紀元前1030年とする見解もある(吉本道雅「西周紀年考」)。

※殷は地方勢力の独立性が強かったため、動員可能な軍勢は王都周辺や利益を共にする地方勢力からのみであった。甲骨文などからは徴兵された人数は3000~5000程度であり、70万人の動員は事実でないと考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※利簋の銘文の冒頭には「武王」を組み合わせた「珷」という文字がある。そのため姫発の王号である「武王」は、生前からの称号だという説もある(佐藤信弥『周』)。

※「何尊」という銘文が刻まれた青銅器からは、武王,姫発の時代には「中国」という言葉が既に存在していたことが理解できる(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※周の下で、甲骨文字はいわゆる漢字へと発展した(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・?年 周の武王,姫発は、かつての殷の地に「三監」を設けた。(『繋年』)

〔参考〕『史記』「周本紀」によれば、発は弟の管叔と蔡叔父に殷の紂王,受の子息である武庚禄父を補佐させたという。

※「三監」とはその3人とされ、武庚禄父ではなく発の弟,霍叔とされることもあった。しかし、『繫年』には「三監」が誰であるか記述はない(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1042年 武王,発は崩御した。(『史記』周本紀)

〔参考)05応公県の銘文は、応公の祖先の号を「賊帝日丁」とする。

〔参考〕「春秋左氏伝』僖公24年条によると、応国の君主は発の子孫である。

※「春秋左氏伝』を信じるならば、発は王と同様に、十干に基づく諡を贈られたようである(佐藤信弥『周』)。

・紀元前1042年 武王,発の崩御後、王子,誦が即位した(成王)。新王を叔父姫旦(周公旦)が補佐した。(『史記』)

※周では王位は父から子へと長子によって受け継がれるものとなった。宗廟にては、父系直系祖先を祀ることになる(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前1042年 股の旧都である商邑にて反乱が起こり、その勢力が「三監」を殺害して彔子聖(耿)を擁立した。(『繋年』) 成王,誦は召公,奭に討伐を命じた。(77大保簋) 周公,旦も征伐に参加し(25卿盤)、商邑を討伐して子耿を殺害した。(『繋年』)

〔異伝〕「史記』「周本紀」は、三監が、周公,旦が国政を主導することに不満を覚えて反乱を起こし、旦によって鎮圧されたとする。

※彔子聖は自作の青銅器(08王子聖觚)に「王子聖」と刻んでいる。つまり彼は殷の王子、『史記』における武庚禄父であり、殷の遺民が主体となった反乱であったと考えられる。周は反乱を鎮圧し、殷の都邑を支配下に収めた(佐藤信弥『周』)。

※それまでの「中国」とは周王のいる「豊」と「鎬」および周辺地域であったが、後に殷の旧都「商」の一帯もそれに加えられた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・紀元前1042年頃? 〔参考〕殷の紂王,受の庶兄,啓は、旧殷王家の後継者として宋を与えられたという。(『史記』宋微子世家)

※「宋微子世家」は、啓の跡を継いだ弟を微仲衍、仲衍の跡を継いだ子息を宋公,稽と記す。その号から、稽より以前は微の地域を治めていたと推測される(佐藤信弥『周』)。

・?年 周の成王,誦は、虞(夨)を唐に封じた。(『史記』)

※『史記』には、虞は誦の弟とある。しかし、それ以前に成立した「晋公𥂝」には武王,発を補佐した功績により唐を建国したとある。そのため、周王との続柄は後の時代のものだと考えられる(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。

・?年 周王は克を燕の侯に封じた。(燕侯克罍・盉)

・紀元前1038年? 周の成王,誦は即位5年の年に「成周」に遷都した。(13何尊)

〔参考〕『史記』「魯周公世家 周公旦」によれば、姫旦(周公旦)は雒邑を増築して「成周」と名付け、殷の遺民を住ませたほか、「王都」を築かせて国都以外の都とし東方への備えたという。

※旦は長子相続、同姓不婚、宗廟の制度を整え、宗族間の秩序「宗法」を定めて、道徳による支配を行った人物とされる。ただ、周は初期において殷の制度を踏襲した部分が多かったと考えられる(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前1038年? 4.? 成王,誦は、かつて文王,昌を補佐した功績により、同族の何にタカラガイ30朋を与えた。(13何尊)

※周王は、高級品である銅塊やタカラガイを臣下に与える賜与儀礼によって上下関係を規定していた。この方式は土地や高級品を継続的に手に入れる必要があり、不安定であった(佐藤信弥『周』)。

〔参考〕13何尊の金文によれば、かつて武王,発は「中国」において民を治めようと述べたのだという。

※13何尊は「中国」の最古の用例である。この文脈における「中国」とは周一帯のことであり、狭い範囲のものであった。また、成用は周王朝の唯一の拠点だったわけではない。成周、またの名を新品は、河南・山東方面を攻略するための拠点として、殿の遺民を中心とする成周八師(八師)という軍隊が置かれた。成周八師と対になる西六師は、宗周に置かれたと推測される(佐藤信弥『周』)。

※「尚書』「詩経」においては、「中国」と似た意味を持つ語として「中夏」と「華夏」が見られる。ただ、「中国」が中心的国色を意味するのに対し、「中夏」と「華夏」は周の政治や文化の中心地、ないしはその影響が及んでいる空間を意味する(冨谷至『中華世界の盛衰』)。

※13何尊には「文王受茲大命」とあり、周代より「天」の崇拝が始まったことが理解できる。周王による支配は天からの命令によるものとして正当化された。「革命(命を革める)」とは、天命が移動したことによる王朝交代を指す。周王は後に「天子」とも呼ばれることとなった(吉本道雅,冨谷至ほか編『概説 中国史』「先秦」)。

※周王は「天子」と称し、「天下」を治め諸侯を従える存在であった。周においては、「文明的な」天子を中心として、そこから場所が離れる程に「野蛮な」者の空間になってゆくという序列化された世界観があった。つまり、天子は1人でなくてはならない(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※周の東西南北の異民族は、それぞれ「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と呼ばれた。『説文解字』によれば、蛮は虫、狄は犬、貉は豸、羌は羊の字根を持つ。このように、「中国」にとっての異民族をあらわす字根は動物の場合が多い。しかし、「夷」という字には人間を意味する「大 」が含まれており、異民族の中ではすぐれた者とみなされていた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・1014年? 周の成王,姫誦は即位28年目に、唐伯,燮(虞/夨の子息)を晋侯に封じた。(晋公𥂝)

・紀元前1020年? 周の成王,誦の崩御後、王子の釗が即位した(成王)。(『史記』周本紀)

※釗は、殷は側近や地方領主がが酒に溺れたために「天命」を失って滅んだと語っている(大盂鼎『殷周金文集成』2837)。主神「天」の命令によって王朝が交替するという天命思想であり、殷を悪であるとして支配を正当化した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・?年 4.丁未 周の王,姫釗は東方の版図を視察し、宜の地に遊行した。釗は虎候,夨を宜の候に任じ、匂い酒、柄杓、弓矢などを与えた。(18宜侯夨簋『殷周金文集成』4320)

※銘文には集落や川筋に関しても記されており、中央から離れた土地も把握していたことが理解できる(佐藤信弥『周』)。

※殷の旧領よりも更に領土を広げるに際して、周王は王族や夨のような功臣に土地や人民を分け与えた。これを「封建」という(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「封」とは本来、草木を植えることで自身の土地の領域を示すことを意味した。周王が封建を行うか臣下に職務を与える(柵名)際の言葉は青銅器に刻まれるようになる(佐川英治「中国王朝の成立」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※宜の原住民は「庶人」と呼ばれたのに対して、周から入植した者は「王人」と呼ばれた。庶人は人為的に編成されることなく、自律的に生活していたと考えられる(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。

※夨に与えられた匂い酒は、地に撒いて神の降臨を促すものであり、柄杓はそれを酌むものである。その2つは祭祀権の象徴である。それに対して弓矢は軍事権の象徴である(吉本道雅『概説 中国史』先秦)。

※周王は支配可能な領域が限られているため、諸侯の自治を認め、独自に法の制定や徴税を行うことを容認した。その代わりに諸侯には、一定の財を周中央に治め、外敵がいればそれに対処することが求められた。ただ諸侯が周王から離れた場所で勢力を拡大することは好ましくないため、諸侯には周王の娘が嫁いで、周王を家長とする宗族関係を形成することとなった。「お姫様」という言葉は、「姫」を姓とする周王族の女性が、豪華な衣装で諸侯に嫁いだことに由来する。諸侯もまた各々の国で自身を家長とする宗族関係が形成されるようになった(渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想』)。

※「戦国時代」以降の文献には、諸侯は周王に対して貢納を行い、軍役に服したとあり、周王と同じく姫姓を持つ諸侯は分家として、本家である周王と「宗法」という秩序のもとに繋がっていたとある。しかし、金文によって裏付けられるものではない(吉本道雅『概説 中国史』「先秦」)。

・紀元前11世紀 Aram人の定住地はGalzu(Kaššu)なき後のBabylōníaまで拡大した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

・紀元前1000年 この時期以降、馬の頬の両側を挟む銜留め具が作られるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前1000年前後 騎馬民族が登場する。初期に現れたIndo・Europa語系のKimmeria人は、北Mesopotamiaにてそこに定住する人々の脅威となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

紀元前1000年頃 Arya人ガンジス川流域のドアーブ地方に進出した。すでにそこでは先住民が農耕を行っていたが、Arya人は深い森を開拓して農耕社会を形成した(馬場紀寿『初期仏教』)。

※アArya人は、ヴァルナ制(ヴァルナは色の意)という社会構造を形成した。ヴァルナ制下においてはブラーフマナ(司祭)を頂点とし、クシャトリア(王侯・戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(隷属民)と身分が分けられ、その枠の外部に不可触民が位置づけられた。アーリアと呼ばれたのはヴァイシャまでであり、シュードラアーリア人に征服された者たちであると考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※インド社会の民法は、ヴァルナ制に起因する差別が担い、法として規定されたのは、上位身分の権限のみであったとも考えられる。そのためインドの生活における社会のつながりは憤激や恣意であり、進歩と発展の目的を持たなかったとも分析される(ゲオルク ヘーゲル『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕序論)。

インダス川上流域からガンジス川流域に進出するまでに、アーリア人聖典ヴェーダ』を編纂した。アーリア人は当時文字を持っておらず、『ヴェーダ』は彼らの話すサンスクリット語で口頭で伝えられていった。『ヴェーダ』に用いられる言葉は、サンスクリット語の中でも最古の語形・語法を保存しているため、「ヴェーダ語」と呼んで区別することもある(馬場紀寿『初期仏教』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

ブラーフマナの祭式において、究極的に願われるのは、死後天界に再生すること(生天)である。ただ、天界においても祭式の効力が切れれば死ぬと考えられた。その解決策として「ウパニシャッド」は、アートマン(我=自己)が個人の属性を捨ててブラフマン(梵=宇宙原理)と合一すること(梵我一如)を教える。こうすることで、天界において不死になるのだという(馬場紀寿『初期仏教』)。

※当初、ヴェーダ聖典は「生天」が宗教的な目的であったが、再び死んで地上に戻ってくるのではないかという不安があった。そのため梵我一如による「天における不死」すなわち解脱が究極目標とされることになった。このころのインドでは「カルマ(業)」の理論が生まれ、生前の行為の善悪によって来世が決定するという考えが広まった。すると、祭祀に頼らずとも善行による天界への再生は可能となり、ブラーフマナ教の権威に陰りが見え始めた(清水俊史『ブッダという男』)。

ブラーフマナの行う祭式には、日の出と日の入りに行う「アグニホトーラ」、月ごとに行う「新月祭」と「満月祭」、春と雨季と秋のはじめに行う「四ヶ月祭」、春のオオムギ、秋のイネの収穫祭、年ごとの「ソーマ祭」があった。アーリア人は農耕社会における月や季節の循環を、祭式によって共同体で共有した。『ヴェーダ』においては、祭式を行うことで時間が巡るのだと考えられた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前1000年頃 鉄器時代となったイタリア半島には、イタリキと呼ばれたインド・ヨーロッパ語系の人々が移住していた。イタリキは、半島中西部丘陵地帯に住むファリクス・ラテン方言郡の人々と、半島東南部山岳地帯に住むオクス・ウンブロ方言郡の人々に分けられる。ラティウム地方に住んだローマ人はファリクス・ラテン方言郡に属する。イタリキより先に半島に居住していた、エトルリア人などの地中海人種は母権的社会を形成していた。それに対してイタリキは家父長制的社会であり祖先崇拝が盛んであった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

エトルリア人の用いたエトルリア文字はギリシア文字を参考にして作られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・〔参考〕シリア南部カナーンで活動していたヘブライ人は、『ネイビーム』「列王記」によればイェルサレムを都としたイスラエルを築き、君主(Yishay)ダヴィデの下で繁栄したとされる。

鈴木1ヘブライ人の用いたヘブライ文字は、フェニキア文字を起源とする。

イスラエルは北方に領土を拡大してアラム人の隊商交易を掌握した。また、ペリシテ人(海の民の一部)を排除して地中海に進出した。また、南方では紅海の交易も開始した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。